2012年4月8日 聖書:マタイ福音書12章1~10節 「イースター・、メッセージ 復活なさったのだ」 牧村 元太郎牧師

神の御子主イエスは、ユダヤに登場し、貧しい人々に神の国を宣べ伝えられましたが、ユダヤで訴えられ総督の裁判で、死刑になり十字架刑に処せられて死んでしまわれました。しかしよみがえられたのです。神様が働いてくださったのです。この世は、神の子を死へと追いやって抹殺しようとしましたが、神は、御子を死より甦らせて、勝利してくださいました。この世の支配者たちは、勝ち誇りましたが、主の十字架の死においてに勝利したのは、主ご自身、神であったのです。罪のこの世が裁かれたのです。主の死そのものが、神さまのみ業であり、神は御子にわたしたちの罪と死を担わせて、私たちの救いを成し遂げられたのです。今や罪も死も、根っこのところで取り除かれて、力をもちません。
しかしこの世のだれがこれを信じることができたでしょう。主に熱い期待をかけてついてきた弟子たちは、主が逮捕された時、主の無力と弱さに絶望し恐怖の余り逃げ去ってしまいました。女弟子たちだけが、泣きながらも主の十字架の死に向き合い、主が葬られたことを見届け、安息日がすぎた日曜日の朝、墓に亡骸となった主に会いに行ったのです。すると大地震があって、墓の入り口をふさいであった石が取り除かれて、その上に天使が座った、というのです。そこにいた番兵たちは恐ろしさの余り震え上がり死人のようになる中、天使が女性達につげました。「恐れることはない。あなたがたは、十字架につけられたイエスを探しているのであろうが、あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。急いでいって、弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれ、そこでお目にかかれる。』と」。ちなみにこの番兵たちは、主の弟子たちが主の遺体を盗んで、主が甦ったと言わないように、祭司長や律法学者によって配置されたものでした。 
主が復活されたということは、権力をもつ者が権力をもたない者、弱い立場の者を、支配・抑圧・搾取しているようなこの世の支配の枠組みが、崩されるということです。そして、そのもとで、無視され存在を否定され、消された人々が、神によって輝かされ、命と尊厳をあたえられるいということでもあります。そして、この世の支配者たちがあの番兵たちのように震撼させられるということです。そして、弟子たちにとって<ガリラヤ>である場所、つまり、私たちの日常の歩みの一歩一歩において、復活の主が、このような裁きと恵みをもって、私たちよりすでに先にいまして、私たちを迎えてくださるのです。私達の日々は復活の主の勝利のみ手の中にあるのです。

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