2016年4月17日 聖書:マタイによる福音書4章1節〜11節
「人はパンだけで生きるものではない」 美濃部信牧師

この話は、イエスが悪魔(誘惑をする者)から誘惑を受ける話です。石をパンに変えてみよ、神殿の屋根から飛び降りて天使に助けを求めてみよ、そして悪魔に従うなら権力を与えようというものです。しかしイエスはそれを跳ね除けました。ここで悪魔は何をささやき、イエスが何を跳ね除けたのでしょうか。現代人は、悪魔といえば耳が大きく、牙のある怖いイメージを持つと同時に、こんなものはいるはずがないと考えます。しかし悪魔なんて荒唐無稽で、この世にいるはずがないと思わせることが悪魔の狙いなのだとカトリック作家遠藤周作は言います。それは部屋の隅に知らぬうちにひっそりとたまる埃のようなものだとも言います。さて、その悪魔がイエスに迫った事は悪いことなのでしょうか。パン(お金)は私たちにとって必要ですし、二つ目の災いを避けること、三つ目の地位の問題も決して悪いことではない。しかし決して悪いことではない事柄にこそ悪魔はささやき、忍び込んでくるのです。だから悪魔の働きは注意をしておかなければならない。
おぞましい戦争はいきなり鉄砲や爆弾が使われるのではない。そのきっかけは誰もが悪と思わない事柄から始まっていくのです。つまりごく当たり前の欲求の中にいつしか悪魔は忍び込み、戦争を引き起こしていく。自分の欲求を貫くことで他を奪っていく。そして戦争になってもなお、この戦争は正当な戦争なのだという思い込みから目覚められないほど深く眠らされてしまうのです。悪魔は、当たり前の人間の欲求の中に忍び込んでくるのです。パンを求めることや自分を守ること、そして偉くなることの中に。私たちはそういうものを求めることに無自覚になり、また埋没させられる。こうやって私たちは悪魔に捕らえられていくのです。だから聖書では悪魔のことを誘惑者というのです。
なぜイエスは「人はパンのみに生きるにあらず」と言われたのか。悪魔の狙いを考えるならば一目瞭然です。イエスはパンを得ることを軽視したのではない。パンを得るという人間の当たり前の営みの中に、人間を盲目にさせる誘惑、人間を非人間化していくような力が働くのだ。イエスが言われた「人はパンのみに生きるにあらず」とはそういうことへの抵抗の言葉なのではないでしょうか。私たちはパンを得ようとしますが、場合によっては人のパンをも奪おうとする。現代でいうとお金の問題といってもよいでしょう。お金を稼ぐために自分以外のものを破壊していくことはこの社会を見れば至る所に蔓延しています。儲けるためなら何をしてもよい、お金という結果が出せれば他がどうなっても良いという心の動き。人は渦中にいる時、そういう心の状態になっても麻痺してしまいます。結果主義が蔓延しているこの世の中です。まさにお金に心を奪われている状態ですが、そういう誘惑には私たちはいつも隣り合わせです。イエスがおっしゃった「人はパンのみに生きるにあらず」私たちを非人間化していく悪魔のささやきに対する抵抗の言葉です。そのように考えると、決してこの話は何か荒唐無稽な話なのではなく、現代に生きる私たちにとっても充分に意義のある話ではないでしょうか。わたしたちは、普段の日常の中で悪魔によって支配されることのないように、イエスに捉えられながら、また「人はパンのみ生きるにあらず」と問われながら、歩ませていただきましょう。

聖書のお話