2016年5月29日 聖書:詩編第1篇 ルカによる福音書13章6~9節  「生命に至る道」 岡田博文兄

「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」(詩編1節)。 詩篇第一篇を総括する第1節のキャッチフレーズです。神様を無視して生き、他方、神様を信じて生きる者を軽蔑する、この世的・世俗的・打算的生活態度をとる者のことです。その交わりに溺れ、その意見に同調するな、そうしない人は幸いであると、言っているのです。消極的な生き方です。
次に、第2節のキャッチフレーズで、積極的な生き方が教えられています。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩編2節)。
つまり、神の御言葉を常に聞く交わりに留まりなさい。そのモデル、模範を3節に記しています。ここで肖像画(Portrait)が出てくるはずですが、実は「風景画」が出てきます。人間ではなくて、一本の木です。
「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩編3節)。
木は命のシンボルです。神の身元から遣わされたナザレのイエスが、罪深い死と滅びの中に命の木として残されています。私たちの只中に立った命の木、それがあの十字架と復活の主なのです。イエスこそ、まことの命の木で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15章5節)。
私たちが、まことのぶどうの木であるイエスにつらなり、イエスに留まる時、初めて実を結ぶことができるのです。葉のしぼむことのない、生き生きとした大樹の、その一つの枝となることがゆるされているのです。
これが教会生活の意味なのです。
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15章6節)。
自分は実を結ばない枝として、除かれることはないだろうか、そういう恐れが湧いてこない人がいるでしょうか。自分の人生を振り返ると、何の実りも発見できない。進歩も成長も認められない。そういう枝に過ぎない自分ですら、神様は残りなさいと、招いてくださるのです。
この主イエスのとりなしの祈りが、十字架から聞こえてくる所、そこが教会なのです。
この命の木、主イエス・キリストの憐れみと赦し、とりなしに支えられて、そしてこの招きの声に聞き従いながら、私たちのまことの歩みが始まる。「留まれ。残りなさい。つながっていなさい。父よ、もう一年待ってください」。
枝以上になる必要はありません。枝として幹につながることに意味があるのです。
ただ謙遜に枝として留まる者を用いて、神が御業をなしてくださるのです。
そこに、私たちの人生の意味もあるのです。

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