2016年7月3日 聖書: コリントの信徒への手紙Ⅰ6章1~11節 「不義を受け入れる」 美濃部信牧師

コリントの教会には争いがありました。パウロは、争い自体を悪いといったのではなく、その争いについて教会の外の人に訴え出る(例えば学識経験者、政治家に)ことを指摘しました。神の民が世を裁くものではないかと彼は言います。神の民は、神の下で何が正しいのかを訪ね求めているのだし、それを知っているはずではないか。そのあなた方が世の人々に裁いてもらうとは、この世の知恵とか、処世術によって教会の問題を解決しようとすることで、その時にあなた方は神の民としてのいのちを失ってしまうのではないかとパウロは言っています。神の民は、何を信じ、何に聞きながら生きているかを繰り返し確認する中で生きているのではないかと問うているのです。
 しかしそれでもどちらが正しいのか分からなくなってしまうこともあるでしょう。パウロは、そういう時、神の民はなぜ不義を受けないのか、なぜむしろ奪われたままでいないのかと言います。ある意味では自分自身、身を引くということでしょう。徹底的に真理が明らかになるまで戦えとは言いません。なぜならばそれが信仰の姿勢だからです。神に任せる信仰です。自分で徹底的に戦わなくてもよい。信仰というのは神に任せることです。別の言葉で言えば、神の前に謙遜になるということともいえます。それは相手が間違えているかもしれないけれども、ひょっとしたら自分が間違えているかもしれないという認識をもつということです。神は絶対ですが、私自身の考えは絶対ではないという認識に立つということです。人は争う時自分は最後の砦です。しかし信仰者は、自分が最後の砦ではありません。神が最後の砦なのです。
不義を受け入れることをパウロは信仰者として勧めたのですがそれどころかあなた方は兄弟に対しても不義を行っていると言います。コリントの教会の人達は自らの正義を貫き通したのでしょう。勿論争うということは相手が間違えているから論争するのです。或いは自分が傷つけられるかもしれないと思って争うそして負けまいと争って打ち勝とうとして争ってその争いの中で自分も不義を行ってしまう。人間世界の争いとはそういうものです。そうやって私たちの周りの争いは正義も不正義も分からなくなってしまいどろどろの争いになってしまいます。
 不義にわたしたちが足を取られない唯一の道は信仰です。神を信じて委ねるということです。自らが正しさなのだと思わないこと。自分にも誤りはあるかも知れないという認識に立たせて頂くこと。その信仰がなければわたしたちの論争は破滅的なものになってしまうでしょう。(詩編37編7節を参照)
 イエスの山上の説教に有名な言葉があります。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」この場合の柔和とは性格の問題ではありません。神を信じて委ねていくという姿勢のことをいいます。神が裁いてくださる。そういう神に委ねる者が柔和なのです。そうやって神からの真理を見させて頂きながら教会は教会として生きるのです。
神に委ねるということは、自分の間違いを見ることになるかもしれません。しかしそれで良いのです。そうやって教会は教会として生きてきました。教会は自らが勝ち続けて勝ちにこだわって相手を打ち負かしながら歩んできたのではなかったのです。そうやって神の真理を見させて頂きながら神の国というものは前進するのだと思います。
 私たちの信仰の生活もそうです。私の正しさがどうしても表れなければ解決しないなどということはないのです。私の方に大きな間違いがあるかもしれない。そのことを神に見させていただく事によって、私は信仰者としてもう一度立つことができるのです。柔和であるということはそういう事です。神の前での謙遜です。それ以外にはないということを私たちは心に刻んでいきたいと思います。

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