2016年7月10日 聖書:ヨハネによる福音書4章7~26節  「確執」   池上信也牧師

ユダヤ人とサマリヤ人は互いの信仰的伝承の違いから、同じヘブライ民族であるにもかかわらず確執があり、互いに交際しない関係であった。交際がなくなると相互理解の機会はなくなり、ますます違いを認め合うことが困難になる。これは日本における部落差別問題に類似している。9節の「交際しない」は、ギリシア語原文では「同じ容器を使わない」となっており、これも部落差別事例としてしばしば存在した事柄と符合する。
 日本では古来、深い絆を示すものとして同じ器を用いるという習慣がある。同じ釜の飯を食うこと、宴会で杯を交わすこと、結婚式の三三九度などはその典型である。しかし教会では、被差別部落出身の信者が聖餐式に加わるようになると、それまで回し飲み形式だった葡萄酒を銘銘の小杯に変更するなどの事例が出現するようになり、差別を衛生的理由にすり替える姑息さが散見される。
 ここでイエスは、井戸に水を汲みに来たサマリヤ人の女性に水を飲ませてほしいと頼む。女性は、自分たちとは容器を共有しないはずのユダヤ人男性がこう言うのを聞いて驚き、双方の確執の根源に触れる。それは礼拝の場所の違いであった。ところがイエスは礼拝の本質を説き、どこで礼拝するのかが大事なのではなく、どのように礼拝をするのかが大事なのだと語りかける(22節は後の加筆と考えられる編集句。このような加筆をしてしまうほどに、サマリヤ人に対する差別意識は根強くあったという証左に他ならない)。イエスは、真実の礼拝が捧げられる時に、人は確執を超えることができるという希望を自ら示されたのである。
 真実の礼拝とは、「霊と真理とをもって」礼拝することであり、それは①心から、自分の意志で、主体的・能動的に礼拝すること、②ありのままの姿で、虚飾を脱ぎ捨てて謙虚に礼拝することである。しかし人間は、自己を優位に置きたい欲望から、この「霊と真理とをもって」礼拝することがなかなかできない。自分が礼拝することすら、時として自分の価値を高めるものと化してしまう。そのような価値は他を貶めるところから生じ、ひいてはこれが差別を生み出すエンジンとなる。
 しかし人が真実の礼拝を捧げる時、その砕かれた心をもって御前にひれ伏し祈る時、人は差別することから解放される。差別する者がいなくなれば、差別はなくなる。部落解放運動は、差別されることからの解放運動ではなく、差別することからの解放運動である。その方向性を、サマリヤ人に「水を飲ませてください」と言ったユダヤ人イエスの、確執を軽々と超える姿勢に見ることができる。
 神様は私の全てを受け止めてくださっている。しかし私は隣人の全てを正しく受け止めているだろうか、差別や偏見はないだろうか。そのようにいつも自問しながら、差別をしない人間になる前に、まず差別をしている自分に気づけるような真実の礼拝を捧げるものでありたい。

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