2016年7月17日 聖書:ヨナ書1章1-2章1節     「神に向かって進む」 鈴木重宣牧師

 熊本における支援活動として、在日大韓基督教熊本教会に週一回お邪魔している。キムソンヒョ牧師と共に、避難所となっている御船町スポーツセンターでカフェを開いている。200名弱の避難者。背景も違う、被災状況も違う。もちろん年齢も性別も違う大勢が一緒に過ごしている。力有る人もいれば、病気がちの人もいる。声が大きい人もいれば、無口であまり立ち歩かない人もいる。いろんな人がノアの箱舟のように集い、身を寄せ合って、明日をも知れない日々を過ごされれている。
 カフェで提供される紙コップ一杯のコーヒーは、いわば関係作りの名刺代わりではあるが、広告の裏のメモ、というわけにはいかない。一級の豆と厳選された水、検証の上決定した手順とレシピに従って、そしてなにより支援者の心を込めて、一杯ずつ提供されている。天の岩戸にこもっているまだ出会わない誰かを呼びだすために、薄いけど堅い、体育館の個別をしきるカーテンを開き、細くて重い足取りを向けていただくため、芳しいコーヒーの香り、賑やかな談笑をもって、体育館入口でカフェを開いている。
 避難所スタッフには話せない事、避難者同士では言いあえないこと、を聞きつつ、同時に、コーヒーと茶菓のひと時をきっかけに、避難者通しの出会いと絆作りの一助を目指している。
 熊本では地震の次は洪水。豪雨と雷も続いた。日々の恐怖は目に見えない形で人々の心をむしばんでいる。倒壊の危険から逃げ出し避難しても、洪水の泥流に追い立てられる。ヨナのように使命から逃れているのではなく、生命危機から逃れているのに追い打ちが続き、休まらない日々がなお続いている。コーヒータイムのわずかな安らぎが、ほんの一時であったとしても、次の一歩に向かう力の助けとなることを願う。
 遠賀川流域にもたくさんある、人柱伝説。堤防が大雨で決壊する、だから堤防強化工事に伴い、人柱を立てた。幼くして両親が無くなり村の庇護を受けて生活してきた若者が、人柱にされたとも聞く。大きすぎる災害、人間の手には負えない自然現象を前にして、人は自然を司る神に対して、犠牲を献げる習慣があるらしい。荒ぶる自然は神の怒り、怒れる神が求めるのは人の命、と解釈し、贖罪の献げモノをもって神の怒りを沈め、大多数の人間が助かる。そして人柱になった存在は、新しい神さま、或いは信仰の対象として、地域の人々に祀られていく。結局人間は、究極的な何かが起こったら、自分以外の何かのせいにして、「自分は関係ない」「自分のせいではない」と決め込みたいのかもしれない。
 ニネベに行くよう命じられ、それを拒絶したヨナは、その後に起こる災害も、自分が神の命令を拒絶したからだと理解した。自分でその責任を引き受け、自ら進んで犠牲になることを提案し受け入れた。
 神の命令を知りながら、そこから逃げ出すヨナ。逃げた後人に迷惑をかけていると猛省し自分を犠牲にしたらいいと提案実行するヨナ。ニネベに行くと人々が懺悔し町が救われる。なのに自分の預言(滅びの預言)が実行されなかったと、怒るヨナ。迷いや悩みや弱さや名誉欲など、非常に人間的な預言者ヨナ。
 自分のせいにしたがる人、人のせいにしたがる人、そんな人と人との間に生きる人、苦しむ人。自己保存に邁進する人、自己犠牲を厭わない人。いろんな人と人との間に、なやむ人間の姿が、ヨナ書ではヨナを通してたくさん描かれている。人と人との感情のぶつかり合い、人の中にある善悪の思いに揺れる人間の弱さ、そのような間に、ヨナも、人の子イエスも立ち続けていたのかもしれない。
 迷いや怖れ、不安や不和の日々、絞り出される祈りや願いの中にこそ、神は愛と奇跡を備えて下さる。違いと差があるがゆえに、支えつながりあう恵みがある。宮田教会という豊かな船の進む先が、主によって守られ、導かれてゆきますように。

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