2016年8月14日 聖書:ヨブ記1章1節〜12節      「受難の始まり」 鈴木重宣牧師

 礼拝を守り、祈りと聖書と賛美の時を持つ。毎週欠かさず行っている様々な信仰者としての努めです。みなさんもきっと日々の生活の中で折々に祈っておられることと思います。私は幼少の頃、食前の祈りを捧げてから食事をする牧師家庭で育ちました。「神さま、ご飯をありがとう。イエス様のお名前によってささげます。アーメン」という短い祈りでした。食前に目を閉じ頭を垂れ、静かに心を神に向かわせる。はずが、直後の「いただきます!」から始まる四人の子どもたちの生存競争における「位置について、用意、ドン!」という合図のようにもなっていました。アーメンと同時にから揚げ争奪戦が始まったり・・・。未だに「アーメン」と唱えると、思わず「いただきます」と続けてしまいそうになったりもします。三つ子の魂百まで、とはなかなか油断なりません。単なる習慣とせず、こころを込めて祈り、神の前に跪くということの難しさを思わずにはおれません。
 今日はヨブ記です。物語の中心人物ヨブは、信心深く、定期的に神に捧げものをしていました。財産も多く、家族もたくさんいて不自由なく過ごしていました。なんの咎もなく、そして当たり前に神を畏れ敬う生活を送っていたヨブに、突然数多の不幸が訪れますが最後にはすべてが返される、そんな不思議な物語です。その冒頭が今日の聖書個所です。今日の重要な登場人物(?)として、サタンが挙げられます。旧約聖書でサタンが登場する場面は、『ヨブ記』の他に二か所あります。『歴代誌上』6章と『ゼカリヤ書』3章です。膨大な旧約聖書の中でこの二か所しかありません。キリスト教のイメージとして、天使や悪魔などがありますが、旧約聖書においては、悪魔サタンはたったの三回しか登場しません。戦争や苦難は数多く描かれていますが、悪魔は3回、他にはエデンの園でエバを誘惑した蛇、サウルを悩ませた悪霊なども或いはサタンに加えられるかも知れませんが、それでも5回。意外に少ない。なのに私たちにサタンのイメージが強くあるのは、やはり新約聖書の影響と、人間は本質的に「恐れ」についての記憶が強い、ということなのかもしれません。
 旧約聖書におけるサタンたちはいづれも、神の下にある存在として描かれています。たとえばエデンの園の蛇も、「神に造られたもの」とありますし、サウルを悩ます「悪霊」も、主のもとから出たと言われています。ヨブ記のサタンがそうであるように、サタンが勝手気ままに人間を惑わし苦しめ悩ませているのではなく、神がサタンに命じ、人から一時幸福を奪い、その信仰を試させている、ということを私たちは理解し、信仰を持って受け止めなければなりません。
 つまりあらゆる受難や試練は、神のもとのサタンによる仕業、すなわち、受難、試練も神の領域において起こっている事柄であるということです。そしてそれらが神のものであるならば、その試練を避けたり、受難から逃れようとすること自体が、神のもとから離れ去ろうとすることになります。あたかもヨナがニネベから離れようとしたように。
 ヨブは神の試練に留まり、神の内にあることを選びとりました。目先の安楽や、希望の実現のために、目の前にある試練を避けたり逃れたりするのではなく、その苦しみその痛みすらも、神の恵みであると信じ、悩みながらも神への信仰を失いませんでした。感謝をもって日々を過ごし、祈りを持ってすべてを受け取る。それが神によって生きる者の定めであり、信仰者の生き方である、ということを、ヨブ記はわたしたちに明確に示しています。
 生活や健康の悩み、仕事の苦しみ、信仰者としての不安、教会の試練。さまざまな場面で、神がたくさんの恵みを与えて下さっています。まさに今の宮田教会は、数え切れないほどの多くの恵みが与えられている時、溢れるばかりの神の祝福が注がれている時です。この喜びを感謝をもって受け、共に分かち合いつつ、主にある民として生かされていくことを願います。

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