2016年11月6日 聖書:へブル人への手紙10章19節~25節 「励まし合って進みましょう」 世良田静江牧師

 本日は聖徒の日永眠者記念礼拝でもあります。イザヤ書40章6~7節に「呼びかけよと声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのかと。内なる者は草に等しい、永らえても、すべて花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」何とネガティブな言葉でしょうか。けれども私たちもこの様な言葉を吐くのです。
“どうぜ私なんて、枯れた草にすぎない”
このイザヤ書の言葉はまた、ペトロの手紙Ⅰ1章24~25節に人は皆、草のようでその華やかさは全て草や花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告知された言葉である。
 人の一生とはこのようなものであるとしたら、何か虚しさに覆われてしまいそうですが、ヘブル人への手紙では、天の召を受ける聖なる兄弟姉妹に来たりつつある世界をよく各章に示されていると思うのです。キリスト、礼拝、そしてエクレシア。いづれもキリストが神と本質を共にし、神を人にあらわせる御子であるキリストを語られているのです。
 特に本日の箇所は、愛なることに励み、集会を止めることなく乱れた生活を慎み、信仰生活に励むようにとのみ言葉です。長いこと、これは信徒への教会生活を送る兄弟姉妹を支え励まして来たみ言葉です。
 天に召された方々も、このみ言葉により歩まれて来たことでしょう。24節にある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、かの日は近づいていると心せねばならないことでしょう。今日、全国各地の教団の教会においてこの記念礼拝がもたれています。各教会には教会を起こされた信徒の方々、熱き思いをもって宣教された方々、困難を乗り越え、今も継続されて建てられている教会の歩みはここ宮田教会にもあります。服部国次郎先生とその先生を支えられた信徒の方々のお話を聴いて、今、教会の中心となられている方々、その先生や信徒を導かれ支えられた方は主イエス・キリストです。教会はその時、その場に祈りつつ歩む時に、必ずそこを支える方々を用いられます。様々なことも、全て意味のある出来事とし、その驚くべき実りと喜びを与えられ、教会はその恵を先取りし、その信仰に立つゆえに絶えず希望を持ち続けることができるのです。神などいないと思う時でも、神は私たちの傍らにいて、じっと私たちを見ておられる。その十字架を背負いつつ、私たちの重荷を担ってくださる。
 先に召された兄弟姉妹方もそのように信じて歩まれました。私たちもその方々に倣い、また歩みつつ、信仰の道を歩んでいきましょう。私たちが経験する出来事はすべてイエスの十字架と復活と共に神の栄光へと向かっていくのです。

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