2016年11月27日 聖書:ヤコブの手紙2章14~17節  マタイによる福音書25章31~40節 「服部団次郎先生の信仰に学ぶ」  鶴尾計介兄

服部団次郎先生は、1933年(S8)沖縄那覇教会に赴任されました。しかしそこで目にしたのは、物乞いをして歩くハンセン病患者の集団でした。当時沖縄本島には療養所施設はなく、彼らは沖縄の風習の「死者の洗骨」を終えて捨てられた棺板やトタンを使って建てられた粗末な小屋や洞窟に住み、物乞いをしながらかろうじて生き延びているという状態でした。そこで先生は牧師を辞し奥様の内職で細々と生計を立てながら、患者集団の多い名護町に移って、青木恵哉牧師と一緒に沖縄キリスト教会を中心に「沖縄MTL」を組織し、救済に乗り出しました。その後患者たちを嫌悪する住民たちによる焼き打ちにあい、雨露をしのぐ場所さえも奪われた病者達は、水もない小さな無人島での生活を余儀なくされるなど、多くの困難に遭いながら、先生は全国に窮状を訴えて募金活動をして、療養所(現国立療養所愛楽園)を建てることができました。戦争が激しくなって疎開船の引率者として本土に帰られた先生は、その後沖縄の玉砕を知ることになります。
 島根県に戻られた先生は「沖縄の苦難に連帯する」という思いで宮田に来られ、炭鉱夫として坑内労働をしながら、労働者伝道を始められました。炭坑は事故の多いところです。貝島炭鉱も毎年2けた、時には3けたの殉教者を出しながらの操業でした。また閉山後は失業者があふれ、精神を患う人が多く、生活保護率を全国平均の9倍、精神病院病床数は7倍と言う現状でした。先生は人間としての権利を奪われたまま死んでいき忘れられようとしている犠牲者の、権利回復を宣言する塔を建てよう、そのことによってすべての差別をこえて一人一人がかけがえのない人間として復権を確かめ合い、今失業者として非人間化され自らを捨てられた者と絶望している人々の自尊心と人間性を回復して、その自主性を取り戻す一助ともなりたい、との思いで「復権の塔」を建てられました。失対現場を回り一人一個の名前を書いた石を出してもらい、それが一万個塔の下に埋められ、塔を支えています。12年の歳月2500万円の事業でした。
 また私立幼稚園をつくり、どこの保育園も断られた障がい者をも受け入れ、幼児教育・障がい者教育にも熱心に取り組まれました。
 服部先生は「祈りの人」でした。幼稚園の奥の教室を借りて塾をしていたころ、牧師館を離れ幼稚園の職員室で一人祈る先生の姿がありました。思わず口から「ああ神さま、神さま」という言葉が何度も出ていました。心から神を信頼し、神を愛していると思わされました。また「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」(マタイ25章40節)という聖句がありますが、先生にとってハンセン病患者や炭鉱犠牲者・失業者や障がい者が、助けを必要としている「小さい者」であったのでしょう。先生は言葉で救うのではなく、これらの人のところへ出かけて行き共に歩くという横のつながりのなかで、必要なものを与えてこられました。(ヤコブの手紙2章14-17節)先生はこれらの人の中にキリストを見ていたのではないかと思わされます。
 「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブの手紙1章22節)とヤコブは教えています。御言葉を行うとは、困っている人、病人、助けを必要としている人と共に歩み必要なものを与えていくことだと思いますが、自分を振り返ってみるとき、はたしてどれだけのことができているのか、心もとない限りです。
 イエスは「神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。」(マタイ22章34-39節)と教えています。神はその一人子を苦難にあわせ十字架の上で死なせることによって、自分のような取るに足りない罪多き者の罪を贖い義としてくださいました。それほどまでしてこんな自分を愛してくださる。この神の愛を受け入れ信じるとき、おのずと神を愛する心が生まれてくるのではないでしょうか。また神様が愛してやまない隣人を愛することが、取りも直さず神を愛することにつながるのだと思います。
 神を愛し人を愛した服部先生の信仰を通して、多くことを学ばされます。神様に力を与えられて、御言葉を行う人へと変えていただきたいと祈るばかりです。

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