2016年12月11日 聖書:ゼファニヤ書 3章14節-18節 「主に喜ばれるものに」 鈴木重宜牧師

 ゼファニヤ書は、旧約聖書の後半の小預言書の1つで、全3章、3000文字にも満たない短い預言書です。この預言書は、
 わたしは地の面から、すべてのものを一掃する、と主は言われる。(1:2)
という厳しい裁きの言葉で始まります。堕落した民の罪への裁きの宣告です。エルサレムと、周辺の異邦人の国に対しての神様の裁きがつづられていきます。
 預言者ゼファニヤは、ヨシヤ王の時代に活動しました。宗教改革を進めたとてもよい王だったヨシヤの治世にあって、不思議と堕落していくのが民の愚かさ、弱さです。どんなによい学びをしても、どんなによい知識があっても環境が整っていても、必ずしもその中にある人がよいものとなるわけではない、ということでしょうか。リーダーがいい、社会が生活が良くなると、結局反比例して、民衆や後に続くものたちは、かえって悪くなる、ということなのでしょうか。この弱さや愚かさに対して、神からの裁きが下されます。
 預言書冒頭から3章の初めまでは、激しい裁きの様が描かれていきます。しかし、3章9節より突然、内容は一変します。完全な滅び、地上のすべてのいのちの終わりの光景が続いたっておかしくない展開があるはずです。
しかし、ここから文脈は大逆転します。
「その後」前の滅びの宣告から、喜びと勝利の賛美へと突然変化します。
わたしは、諸国の民に清い唇を与える。(9節)
 神によって、いきなり民は神に立ち返らされます。ここで重要なのは、自分たちの努力や決心ではなく、神様の力によってです。人間の努力や反省、猛省、死ぬほどの苦しみがあろうとなかろうと、神は、神の立場で考え方で、神のタイミングで、民を救われる、ということです。この立ち返りの主導権は神の側のみがもっている、ということです。したいけどできない民にかわって、神が与えてくれる力によって、人は神に立ち返ることができます。私たちが生活していく中で、「したいけどできないこと」「したくないのにしてしまうこと」は多いのではないでしょうか。「本当はダイエットしたいのに、ついつい甘いものを食べてしまう」、なんてこともあります。私たちには、自分の力でどうにもならないことがたくさんあります。不完全な者、無力な者であることを思い知らされます。そのままだと、絶望な人生になってしまいます。人間には弱さがつきまとうからです。けれども、神の側には、弱さではなく、人間を超えた力があり、人間の愚かさなどお構いなしに、神のタイミングで人を救って下さる力があります。
「その後」から始まった、神の救済、神の愛は、絶望の後にやってくる、神の救いがかならずある、ということを教えてくれています。ならばこそ、今の苦しみを恐れず、愚かな自分に落ち込まず、先の見えない不安にさいなまれず、ただひたすらに主の回復、神の救済を願いつつ、歩みを進めていきましょう。

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