2016年12月25日 聖書:マタイによる福音書2章1節~12節 「神を信じるということ」美濃部信牧師

本日聖書にある占星術の学者は東方(通常ペルシャといわれる)からやってきた人で、ユダヤ人からすると異教徒ということになります。聖書で東方とは何か忌み嫌われる場所だったようです。また占星術とは、天体の動きを観測して、それと人間の人生や社会の動向とが何らか関係があると考えるもので聖書の信仰とは合い入れませんでした。学者という言葉も聖書の原典をみると「魔術師」という意味で、マタイは学者というより、なにかいかがわしい魔術的な行為をする人たちだというニュアンスを込めていたように思います。
それではこの学者たちは、マタイが言うように本当にいかがわしかったかというと、そうとも言えませんでした。占星術の学者は天体を毎日観測し、その動きに精通しており、ある面では緻密な研究活動をしていました。もちろん現代とは世界観が違いますが、当時の世界観の中では科学的だったし、理屈に乗っ取った思考が行われていたようです。
その占星術の学者たちがある時、空に大きく瞬く星を発見した。その下に救い主がお生まれになることを知り、大きな旅をしたのです。しかし星に導かれて救い主に会いに行くとは、冷静に判断していく学者「らしからぬ」行為ではないでしょうか。今までに見たことのない大きな星があったからといって、大きく危険な旅に出るとは説明が付かない。ひとつひとつ今ある事実を積み上げてこの旅が確実なものかどうかを冷静に検証していくならば、この旅をはじめるにはわからないことが多すぎる。
しかし神(の子)に出会うとは、理屈で全てをうまく説明できないのではないか。ではどういう風に神に出会っていくのか。自分の考える力が優れていて、研究熱心で、たくさんの文献を読んで、解析をして、神を捉えたから、神に出会っていくのでしょうか。そうではありません。占星術の学者は星に導かれたのです。彼らは学者として、事実を積み重ね、結論を導き出そうとしていた。しかし神に出会う時は星に導かれなければならなかったのです。自分の力ではない。
今日の聖書の少し前に有名な「インマヌエル」の話が出てきます。イエス・キリストは旧約聖書が伝える「インマヌエル」なのだ。つまり「神は我々と主におられる」という意味です。「神が私たちと共におられる」というメッセージは、私たち人間が努力をして神のもとに昇っていって神とともにいるというのではありません。これは他でもない、神が私たちのところに下られたのだという意味です。イエス・キリストとして。神が子なるキリストを私たちの世にお使わし下さった形で、神は私たちと共におられるのです。
ヨハネによる福音書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。神が私たちを愛してくださった。つまり神の側からイエス・キリストをお送り下さったのです。私たちが努力をして神を捉えたのではないのです。神が私たちのところに下ってきて下さらなければ、私たちは神とともにいることはできなかったのです。
占星術の学者たちが自ら独力で神を捉えたのではなく、星に導かれたように、私たちも神に導かれながら、日々神に出会わせていただきながら、また新しい週を過ごさせていただきたいと思います。

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