2017年2月12日 聖書:列王記上 10章1~13節    「満ち足りるには」 鈴木重宣牧師

僕はどちらかと言うと収集好きな部類に入るのかもしれない。郵便ポスト型の貯金箱は40個は下らない。赤色は当然、黄色や茶色、黒や金ぴかなもの、大きさは極小サイズから腰掛けられる程のものまで様々ある。他にはランプと鍵の形をした小物たち。後は猫のデザインがあるものなら何でも。理由は分からないけれど、店などで見つけると無性に欲しくなる。物欲自体はさほど強い方ではないと思う、この4種類を除けば。皆さんにだって多少はこだわりの逸品や手に入れたい品などがあるのではないだろうか。決して否定的な意味ではなく、むしろ積極的に「お気に入り」を自覚してみてはいかがだろうか。そんな品々を目に着く所に置いたり身につけておくと、ストレスの緩和や不安やイライラの低減、回避にもきっと役に立つ。自分自身を知るという行為の延長のつもりで、自分の嗜好や趣味を見つめてみる。理由を見出すのではなく、素直な気持ちで欲する心を大事にすることは、きっと自身を成長させることにつながる。
 シェバの女王は今から3000年近く前の人で、栄華を極めたソロモンと並び、その行動力と豊かな機知で国に繁栄をもたらした古代の偉人。木村拓也と工藤静香、松田聖子と神田正樹、とでも言わんばかりに、ソロモンとの恋物語もあるとか。若くしてシェバの女王はビルキスという本名で、権謀術中を駆使し上位の王位継承権を有する親族を殺害(4人も?!)してまで女王の座を獲得したとも言われている。そんなやり手で欲が深そうな女王が、手土産を引っ提げてソロモン王に会うためにはるばる訪ねてきた。そして用意してきたたくさんの質問を投げかけ、すべてに解を得るに至った。たくさんの富を手にし権力を得ても、なお多くの問いを備え、或いは抱えていた女王は、現代の私たちが物に囲まれ便利に過ごしているけれども、どこか満たされず、何かを欲してしまう状態と似ている。女王の尽きることのない欲は、とうとう外国の高名な知恵者に問答しに行くほどのエネルギーとなった。挑戦的に「試してやろう」「負かしてやろう」という意気込みで来て、逆にやりこめられてしまう。何となく一休さんのとんち話を連想する。
 では、あらかじめ用意していたという質問とは、どんなものだったのだろうか。まさか「屏風の虎を捕まえてみよ」ではないが、パリサイ派や律法学者達の意地悪であげ足取りが目的の、イエス様に対しての質問のようなものだったのかもしれない。命の行く末、人の生きる意味、罪と罰について、神とは何なのか、など、明快な解を出すには躊躇するようなものの羅列だったのではないだろうか。事実は語られていないが、おそらく女王の問いに対する解として、ソロモンに神を説かれ、神に従い愛されるソロモンの信仰を目の当たりにし、結果、シェバの女王は深い感銘を受けた。だからこそイスラエルの神を称え、持ってきたたくさんの品々を献上したのではないだろうか。もはや、物の量や質によって満たされる必要が無い状態、物なんていらない、物ではもはや物足りない、すわなち神の恵みと愛を知り満たされた者となったからこそ、かつてないほどの贈り物をソロモンに渡すことが出来たシェバの女王がいたのではないか。そしてこの女王の姿に、今こそ私たちも見習う必要があるように思える。
 そこで、冒頭の勧めを若干修正したい。なんらかお気に入りの品物をコレクションすることで得られる安心安定には限度があり、所詮は被造物で有限でしかない。そのことを踏まえた上で、短くわずかな快を得ることは否定しない。しかしキリスト者として真に欲するべきは、神の言葉であり、自覚すべきは神の愛であり、なすべきは神の御心に沿う生き方である、ということをなお強くこころに刻み、歩む者となることを勧めます。そして、自身の好悪の多寡を自覚し、欠けを埋めることを欲し、主の御言葉にそれを求め、さらに満たされて歩み出す者として、宮田教会という小さな群れをさらに進めていきましょう。

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