2017年3月5日聖書:マルコによる福音書10章32~45節 「仕える者になりなさい」 世良田静江牧師 

一言で本日の箇所を括るとすれば、野心をもったヤコブとヨハネの希望、それはイエス様が坐られる両隣に坐したいという願いであり、野心でもあります。私たちは、毎週毎週教会に来て神様を賛美します。祈り、願い、神の祝福を受け、慰めと希望に満ちた御言葉をいただき、また教会から出て日常の生活へと戻り、苦難や喜びに満ちていく。この繰り返す私たちの日々の生活は新たにされていく。この事によって私たちは支えられ生かされていることをより感謝し、受けとめていくと思うのです。ヤコブやヨハネが何故、主の隣に坐したいと願い出たのは何でしょう。本日の箇所を一節ずつ読み解いていけば、主は自分の身に起ころうとしていることにすでに恐ろしい場面を分かって、その事を聞きつつも、次の言葉が出てくるのが35節以下の話です。
イエス様の苦悩とパッション、イエス様の受難、その中に燃え上がる情熱、この中でこの弟子たちとの温度差があるのです。教会が発展充実しない原因として ①聖書からの隔離 ②祈りの欠如 ③交わりの不足 ④奉仕の乏しさ があります。聖書の中で本当に主イエス様と出会うことができたなら、私たちの生活に必ず変化が起こってくる、その時には必然的に内側から湧き上がってくる力によって様々な活力ある活動ができると思うのです。今、これだけイエス様のつらい十字架の途上の話を聞きつつも、全く理解できていない弟子たちの姿に私たちは何を見、考えるべきなのでしょうか。イエス様の御心を伺うのではなく、まず、自分の願いがある、ここに的外れの姿を自分の信仰と重ね合わしてみるどうでしょうか。イエス様に仕えるということを、私たちの信仰生活に置き換えると、それは、祈りや献金や奉仕によって教会を支えていくことであり、また、世にあって隣人に仕えるとは、大胆に福音を宣べ伝えていくことでしょうか。けれども私たちは自分の生活で精一杯、教会に行く時間もなかなか祈る時間もなかなかとない、こう言い出しますと私たちは自分の生活を守るあまり教会のことは全て後回しにしてしまう自分の後ろめたさもあります。けれども、神に仕え、隣人に仕えるということは、自分を犠牲にしなさいということではありません。犠牲者はお一人イエス・キリストと神は言ってくださいます。イエス様が仰るのは隣人を自分のように愛しなさい。「自分のように」ですから自分を愛さない人が隣人を愛することは出来ないのです。自分が人にして頂いた以上の事をもって仕えようとすれば良いのです。祈りや献金、奉仕、そして伝道、イエス様から託された使命は重い務めです。でも、そんな信仰生活は私たちが驚きと恐れを抱きます。不信仰な私たちを神は愛してくださる。イエス・キリストの十字架によって驚きと恵みとし、恐れを信じる心に変えてくださる。それが礼拝であり、人に仕える原動力となるのです。教会にも世にも仕える者となるために、礼拝から一人ひとりを変華させてくれる時としましょう。恐れずに、勇気をもって、信じることを伝えていく一歩をすすめましょう。

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