2017年3月12日 聖書:創世記 6章11~22節 「誰のために生きますか」鈴木重宣牧師

 春が近づきたくさんの生き物たちがいのちを謳歌する時期になりました。ウグイスはホーホケキョ、ホトトギスは?などといろいろ考えを巡らすのも楽しい季節となりました。たくさんの種類の生き物が神によって創造され地上に海中に大空に、そのいのちを育んでいます。たくさんの動物として連想するのがノアの方舟の物語です。このテキストを読むと、思い出してしまうのが大津波の被害が大きかった東北震災です。正確に言えば、3.11のテレビ報道を目にすると、ノアの物語を思い出す、のですが。恐ろしく厳しく辛い大災害の現実と、聖書の中にある物語が視覚的につながり、何ともいえない心持ちになります。なぜこのような物語が聖書に収録されているのか、奇妙にも思えるかもしれません。或いは、まさに今のわたしたちの現実に備え、この物語が語り継がれてきたといえるのではないでしょうか。選別と分断があちこちに存在し、格差と貧困が広がる世界、私たちの生きる世界はノアの時代とある意味変わらないのかもしれません。
 ノアは神からすべての生き物と自分の家族を方舟に乗せるように命じられます。すべての生き物といっても、つがいの二頭や二匹や二羽ですから、それ以外の生き物は乗れないことになってしまいます。妻と子どもとその妻。家族といっても随分身近な存在ですが、その外側に置かれてしまった人たちはどうなってしまうのでしょうか。ノアは悩んで迷って困ったのではないだろうか、この人は、この動物は、方舟に乗せられない、乗せてあげたい、でも限りがあるしルールがあるし、予定外だし、でも置いていっていいのだろうか、そんないろんな考えが浮かんだに違いないのに、そこは何も描かれていない物語です。もしかしたらいろいろと思い描くことが許されている物語といえるかもしれません。
 この物語の洪水の原因は人間の暴虐だったにもかかわらず、他の生き物のいのちにまで、地上すべてにまで広げられてしまう神の裁きがありました。いのちの犠牲があまりにも大きいと言わざるを得ません。これは或いは現代の放射能の問題と通じているのかもしれません。一部の人間の便利と利権と権力の乱用によって、多くの人々の命と生活と自然が破壊され、変更を余儀なくされる。古代から現代に至るまで、人間の営みは変わっていないということなのでしょうか。
 人類は何度となく天災に見舞われ多くのいのちが失われ、何度となく人災を引き起こし、数え切れない悲惨がまき散らされてきました。或いは、生物のある一種類が乱獲され絶滅してしまうことも幾たびもありました。生の先にある死は、命在るものには誰にでも等しくやってきます。そして身近な死にあっては、時間をかけて受容し、残されたものとして歩むその一歩を支え合って始める事が可能となりますが、一度にあまりにも大量の死がやってくることには、人間は思考力を失い、悲しみを通り過ぎて気力を失ってしまいます。人類はそれらを幾たびも経験し、そのたびに乗り越えてきました。その経験の記憶が、或いはノアの物語を単なる話としてではなく、神のメッセージとして受け取ることを可能としてきたのかもしれません。
 もし仮に、自分の家族と生き物だけが助かると、神の啓示を受けたとして、そして実際助かったとしたら、どう感じるでしょうか。世界が滅亡した先に、動物と家族だけで地上に取り残されたとしたら。嬉しいと思えるでしょうか?今日聞くホーホケキョは、次は誰と共に聴けばいいのか。春を喜ぶ言葉をかわす友人はもういないのだとしたら、それは本当に喜ばしい状況といえるでしょうか。今は教会に集えば神の家族がいる。でも、教会の礼拝を終えて一歩外に出た時、誰とも分かち合う事のできない隔てを感じているのだとしたら、それは本当に神が喜ばれる信仰共同体のあり方といえるでしょうか。
 神は歴史に働きかける。怒りもし、悲しみも哀れみも持ち合わせた方。ただ座して、人間の願いを聞いたり不平を見たりするだけの存在ではない、というイスラエルの神認識を示す、モーセ物語。では現代を生きる私たちにとって、神とはどういう存在か。歴史に働き変える神によって生かされている私たちは、神の前に、歴史の前に、どう働かされるか、知らなければなりません。自分自身だけが方舟に乗れたことを喜ぶような共同体ではなく、ともに生きる被造物として世界とつながる隣人とつながる共同体として、宮田教会の今が、洪水を前にして開かれた方舟となれるよう、一人一人が声を上げ、神の偉大なみ業を賛美し、その御心に従う群れの一員として歩みを進めてゆけるよう、信仰を合わせて励んでゆきましょう。

聖書のお話