2017年4月9日 聖書:エレミヤ書1章4節~10節    「召し出されていく」 鈴木重宣牧師

預言者エレミヤはヨシヤ王とともに宗教改革を行いました。しかし王の死により状況が変わったにもかかわらず『このまま形ばかりの礼拝を続けるならばエルサレムは滅亡する』と預言し続けたため、反感を買い迫害されました。「涙の預言者」とも呼ばれるエレミヤは、『呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを生んだ日は祝福されてはならない。』と自らの生涯を振り返り涙に明け暮れる日々が続きますが、それでも孤独な信仰の戦いを止めませんでした。なぜなのでしょうか。それはおそらくイスラエルへの失望(偶像崇拝・形式的な礼拝)と自らの苦悩(迫害)により追いつめられ、泣き、その苦しみと弱さの究極的な状況になったが故に、『神の御心』に深く触れることが出来るようになった、ということではないでしょうか。人間に失望し、己に幻滅し、頼るべき王も死に、まったく寄る辺のない中で心の底から神にすがり、その上で、再び人を神の前に導こうとした預言者エレミヤ。まさに真の預言者と言えるのではないでしょうか。現代の私たちも、上辺で感じなんとなくやり過ごす毎日だとしたら、きっと神に深く頭を垂れ御心に聴くことなどできはしません。逃げ場無く追い詰められ、答えもないままに苦しみぬくとき、神の助けと導きとが感じられるのではないでしょうか。人から捨てられ排除され忌み嫌われ差別され追い出された時、孤独と孤立、困窮と困惑、挫折と絶望、そのような経験を重ねる時、神との繋がりを強く求め、さらにそこから押し出されて社会や人々と向き合う勇気と信仰を持つことが出来るようになります。世界では、何らかのきっかけにより、特別なことが一般に、特殊なことが通常になります。災害によりボランティアが当たり前になりました。深い悲しみと絶望、時に人間に失望し、神の前にへりくだり、神とのつながりが当たり前になり、そして再び人間の前に立たされていきます。
 エレミヤの時代とは違う私たちは、神の前にへりくだるのに特別な儀式や面倒な手続きもいりません。神と民族集団、というくくりではなく、神と個人、というつながりがすでに2000年前に与えられました。神が人間に迫ってきて下さったのですから。神とはどこか遠いかけ離れた存在、ではなく、まさに、「わたし:個人」に語りかけて下さる、良きにつけ悪しきにつけ、「わたし」を招き省み、励まし、新たなあゆみへと促してくださる方です。
 神さまは、教会を通してのみやってくるのか?と問われれば、おそらくこない、と言える。○○教会には先月神さまがやってきた、御言葉が降ってきた、でもあっちの教会は来週くるらしい、なんてことにはなりません。教会とか地域とか国とか民族とかいうような単位ではなく、他者との出会い、人と人との間、つながりに、神さまがその存在を発揮されます。国境も言語も教会も飛び越えて、直接、その人の心に語りかけてきます、エレミヤに対して神が語りかけたように。
受難節のこの時、その声に心を静め耳を澄まし、聴き従って歩む者となりましょう。

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