2017年4月30日 聖書:マタイ福音書27章45~54節 「絶望の叫びを越えて」岡田博文兄

 本日は主イエスの最期の言葉について取り上げます。
主イエスは十字架の上で、息をお引取りになる前に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(46節)と大声でお叫びになりました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)という意味です。この言葉を正しく理解することは、主イエスがどうして十字架におかかりにならねばならなかったかを知るために、とても大切なことです。
ここで3つの点について考えましょう。
 まず第一に、この言葉が十字架の上で単に肉体の苦痛をお受けになっただけではなく、神様にさえも見捨てられるような、恐ろしい経験をなさったことを示しています。
 私たちがいつも恐れていることは、人に見放され、独りぼっちで置き去られ、忘れられてしまうことです。村八分にされたり、仲間外れにされることが一番恐ろしいのです。
 すべての人はいつか死ななければなりません。
聖書は、人間が死んだ時に、肉体が滅びても、魂だけは天国に行くというような考え方、つまり「霊魂不滅」を語っていません。神様に背いた罪が、赦されないまま死ぬことは、決して神様の身元に帰ることではなく、神様に裁かれ、見捨てられることです。
 次に、私たち人間が考えなければならない一番大事なことは、死の問題ではなく、「罪の問題」です。罪の問題が解決されなければ、私たちは安心して死ぬことはできません。これが第二の問題です。主イエスは、私たちに代わって、神様に見捨てられるという恐ろしい苦しみを受けて、十字架の上で息を引き取られました。それは、神様に見捨てられなければならない罪を、私たちから取り去ってくださるためでした。苦しい息の下から叫ばれた主イエスのお言葉の中に、神様に背いて罪深い生活を続けている私たちが、死によって受けなければならない苦しみが表されています。また、このお言葉の中に、私たちの身代わりになってくださった主イエスの深い愛が余すことなく示されているのです
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ローマ5章8節)。
 第三に、主イエスの十字架の上での最期のお言葉は、絶望の叫びではなく、「信頼の祈り」です(詩篇22篇)。主イエスは、神様から最も遠く引き離されたと思われるような、十字架の苦しみの中で、最後まで神様への信頼を失うことなく、神様と共におられたのです。主イエスの最期を目撃した異教徒であるローマの百人隊長でさえ、次のように告白せずにはおれませんでした、「本当に、この人は神の子であった」(46節)。
 神様から見捨てられた苦しみと絶望の中で、最後まで神様とひとつであられた主イエス・キリスト。この主イエスの愛と恵みによって、私たちもまた、神様から遠く隔てられた、見捨てられたような絶望、苦しみと不安に満ちた、日毎の生活の只中にあっても、喜びと希望を持って神様と共に生きることができるのです

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