2017年5月7日 聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ    12章3~13節「恵に生かされて」 世良田静江牧師

 つい先日、こころの時代という番組でクーベル文学賞作家のスベトラーナ・アレクシエービッチさんが語っているのを聴きました。現在はセカンドハンドの時代(使い古した時代)である。日本の福島の飯舘村では102歳の古老が自殺をした。原発事故への抵抗であった。今、チェルノブイリを見、日本を見て、すでに福島の事を忘れようとしている人々が増えている。戦わない人々が増えている。国家とどう戦うか、責任をどうとらせるかという考えが欠けている。日本社会には「抵抗の文化」がない。私たちが生きるとは人間であり続けることであると強調しておりました。
さて、コリントの本日の箇所を読みますと、この手紙は54~56年ごろ、パウロによって書かれた手紙である。パウロはコリントの町に1年6か月住み、コリントの教会を立ち上げて離れましたが、その後コリントの教会からはパウロに様々な事柄が問われ、パウロも心をくだいて書き送ったのがこの手紙であったろうと思うのです。ある注解書にはコリントはアテネ神を祭り、町は偶像神で満ち溢れ、神殿には娼婦が1000人もいた。淫れた町であったと書かれていますが、BC146年ローマ軍に攻め落とされて建物も破壊を受け、ギリシャ的な町もローマに従い法律も政治も完全にローマ的に決定されていたと思われます。二つの港を有し、一方はアジアへ、一方はイタリアへ向け繁栄をしていた港町の様相があった事でしょう。
クロエという女性が率いる一家からの不和を聴くパウロにとって、様々な問題に丁寧に応じていると思うのです。2000年を経ても教会はやはり問題を抱えています。それに応えて、唯一の霊によって一人ひとりが働き、与えられた恵によってユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと奴隷であろうと自由な身分であろうと。皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊にのませてもらったのです。とパウロは語るのです。もし教会に分裂があれば体としては成り立っていけませんし、活動もアクションを起こすこともできません。神から与えられた賜物(カリスマ)が何であれ受け入れ教会のために用いるべきだとパウロはしたためています。あるべき教会と信徒のあり様が示されています。

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