2017年5月14日 聖書:サムエル記上 16章14-23節「いのちのバトンをつないで」鈴木重宣牧師

 サムエル記16章には、イスラエル王国最初の王サウルと、その後継者となるダビデの話が描かれている。イスラエルはエジプト脱出の後、神の約束どおりカナン(パレスチナ)に入り定住した。そして先住者との衝突を繰り返すことになる。イスラエルは「士師」とよばれる調停役を立て、民をリードする方法をとる。士師によるイスラエル部族連合はその後周辺国との関係上「国家」成立の必要性に迫られる。その最初の王として立てられたのがサウル。彼は、初代の王として粉骨砕身働くも、やがて王の地位を失うことになる。その後継者が有名なダビデ王。今日の個所はダビデが見出される場面が描かれている。
 子どもの頃から見いだされ、登用された少年ダビデ。美しい少年ダビデは目に良く耳に良く、王の心の糧となった。王国建設に腐心し苦労を重ね、身も心も疲れ始めていた先代王サウルにとって、それはうらやましく眩しい存在だったのかもしれない。しかしこの後には、癒しがいつの間にかねたみへとかわるほどに、過去の苦労を知らない新しい世代の力強さが、時に疎ましくしんどくなるサウル王が描かれていく。
 洋の東西も時代も関係なく、先人の困難と努力と忍耐によって築かれてきた時を経て、教会は新しい世代へと受け継がれていく。その労苦を経験していないからこそ、新世代は新しく始めるエネルギーがあるのかもしれない。今の苦労は次に引き継がず、遺産と歴史だけを受け継いでいく。或いはそこには断絶があり、時にはそこには離反がある。そうすることによって、再生が起こり心機一転新たな出発が始まる。宮田教会の多くの信仰の先達は、主に守られ導かれつつ、苦労し努力し忍耐し、教会を作り守り育ててきた。そしてもちろんその労苦を後継者たちに負わせ続けることを望んだりしない。
 今の宮田教会の状況は端的に言って、しんどい、さびしい、つらい、きつい。いずれも避けられるならば避けたい状況。けれどもそれを我が身に負い引き受けることによって、次の世代は新たにあゆみを進めることが出来るようになる。罪を引き受けいのちをつないだ主イエスが、私たちのために身に負って下さった私たちの罪。これにより、私たちは今を生きることが出来ている。私たちも、労苦を惜しまず痛みから逃げず、寂しさを避けずに、時代をつなぐ物として、信仰をもって、これを引き受けて歩む者となりたい。
 歩みは引き継がれる、語り継がれる、時代は終わらない。教会も主のまじわりも信仰も、神によって導かれていく。

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