2017年6月11日 聖書:イザヤ書 6章1節~8節    「語り伝えるものとして」 鈴木重宣牧師

 前8世紀の預言者イザヤは、南王国ユダの首都エルサレムで活動した預言者です。ウジヤ王の世に預言者として活動を開始し,ヒゼキヤ王の治世中まで継続しました。イザヤ 6章はイザヤが神から預言者として招命を受けた時を描いています。その時のことを「ウジヤ王の死んだ年」という言葉で始めているこの章は、或いは衝撃的な始まり方であると言えます。神に召され新たに歩みを始めるその最初が、「死」によって数えられ始めるわけです。私たちが日常用いている西暦は、イエスの誕生をその始まりとしています。生まれてから何年何月何日、とわかる西暦は何となくよい印象を受けます。一方で昭和とか平成は、前代の天皇が死んだ時に新たに始ります。つまり、平成10年は昭和天皇が死んで10年目、ということになります。死によって時を刻むのは正直あまり好きではありません。ちなみに息子の風歌は2000年1月1日生まれなので、今日2017年6月11日は17歳と6カ月と11日目、とすぐにわかるので便利です。ウジヤ王の死んだ年、という言葉で始まる6章は、そういう意味でもあまりいい印象がありません。イザヤが憶えていたのは、王との死別による絶望、悲嘆にくれる日々、今後起こりうる国の混乱、残された者として担うべき責任の重さ、などだったのではないでしょうか。そんな辛い心境にあったイザヤが、神からの招命を受けて預言活動を始めるきっかけが描かれている個所が今日の聖書個所です。
 この個所にはセラフィムが出てきます。旧約聖書に出てくる謎の存在の一つです。ネットで調べてみると一番に「キャメロン&ガブリエル」という会社が出している製品で、「セラフィム 高濃縮ナイトリペア美容液」というものが出てきます。社名は大天使に由来するようですが、製品名のセラフィムは大天使よりもさらに上位に位置づけられている熾天使 (Seraphim)から取られています。人間の美容に天使までをも用いる現代、3000年も経て随分世の中は変わったようです。
 ウジヤ王が死んだあと。指導者代表者がいない時、もうだめだと失意のどん底にある時、或いは新たな大きな責任と覚悟を求められ、心身ともに過重なストレスを感じている時。そんな時に現わされる、神からの大きな使命。イザヤは覚悟を持たなければなりませんでした。その信仰の確信は、主なる神が、覆って下さる、見守って下さる、導いて下さる、守って下さる、清めて下さる、力づけて下さる。燃え上がる炭火によって、口が清められ強められ熱く語るようになる。そのような、信仰の確信を得た、イザヤが立たされる場面です。
 歴史は進み世界は変わります。教会も地域も人生にも、苦しみがあり、忍耐があり、変わらず働かれる主なる神の大いなる御手によって、栄光の時へと導かれていきます。主の栄光が変わらずにただだらだらと続くのではなく、栄光と繁栄、失敗と衰退、離反と減退などを経て、ふたたび回復されていく神の民の安定を、イザヤ書は描き出しています。先代という過去を引き受け、次代という未来へと受け継ぐ。その過程において、人の限界を知り、神の導きを信仰をもって知る時、人は、大胆に語り、火のように熱くなりえます。そして神は、魂が砕かれるとき、つまり、弱さ愚かさ、駄目さに気付く時、、罪の告白をする時に、必ずわたしたちの恐れと弱さとを取り除いて下さり、確信と強さを与えて下さいます。
 宮田教会は、主によって立てられた教会、主によって導かれる教会
主によって試練を賜る教会、主によって購われている教会です。その主に、罪を告白し、頭を垂れて、誰しもが大胆に語りだす信仰者の群れとして、イザヤに続き、イエスにしたがって歩む者となりましょう。

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