2017年6月25日 聖書:マタイによる福音書26章47節~ 56節 27章3節~5節「神が与えた役割」豊田護兄

 聖書は人が書いた書物です。人が書いたということは何らかの意図がそこにはあります。例えば福音書についていえば、全ての福音書に書かれている事柄も在りますが、一つの福音書にしか書かれていない事柄もあります。それらをどのように読むかは、それぞれの人に任されています。
 ユダについては、太宰治の「駆け込み訴え」という短編がとても興味を引きます。太宰によると、ユダは弟子の中でも一番賢く文字も書け計算も出来たとあります。そして最もキリストを理解していたと思われます。ペテロは直情的で「あほ」ですからキリストを真に理解することはとうてい出来ません。キリストが予言通りに死に至るためには、裏切る役割を果たす弟子が必要です。この役目を果たすことは、未来永劫疎まれ裏切り者として歴史に刻まれる恐ろしい役回りで、死すらも自ら自殺しか与えられない過酷で恐ろしい役回りです。こんな恐ろしい役回りは、愚かなペテロではとうてい出来ませんし理解できないでしょう。そこでキリストはユダにこの役回りをたのんだのではないでしょうか。
 十字架で死ぬキリスト、裏切りの役を果たし自ら死ななければならないユダ。他の弟子達は逃げまどい生きようとするのです。そして何も理解しなかった彼らは英雄になり、歴史にのこります。
 人には色々な役割があります。幸福な役割、不幸な役割、豊かな生活、貧しい生活、出もそこには何らかの神の意味が秘められているのではないでしょうか。 

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