2017年7月9日 聖書:ヨハネによる福音書6章60~71節「主よ、われら誰にゆかん」 田中知牧師

 北九州地区の講壇交換として、宮田教会の皆さまと共に礼拝できます恵みを感謝します。礼拝招詞で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節)の御言葉が与えられました。現代の揺れ動く時代の中で、「わたしたちはどこへ行くのか?」との問いに対する答えが、「主よ、われら誰にゆかん(=道であるイエス・キリストのほか、誰のところに行くことができるでしょう)」との信仰告白となります。
 本日の箇所は、主イエスに対する「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(60節)との非難の言葉で始まります。6章全体の流れで読み取ると、「5千人の給食」から始まり、主イエスこそが「命のパン」であることが語られ、今日の聖餐につながる「主イエスの肉を食べ、血を飲む」教えがなされます。生きるに不可欠な「食べる」事柄を中心に話が展開しますが、改めて読んでも、当時の人々だけでなく、今日のわたしたちをも十分に困惑させる内容です。
 結果、多くの者が主イエスのもとを去りました(66節)。当然、12弟子の心もまた揺れ動きました。しかし「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)との主イエスの問いかけに、12弟子を代表する形でペトロが答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(68、69節)
 多くの者が去り、また、結果的にユダが主イエスを裏切る中で、なぜペトロは信仰の告白をなし、主イエスにつながり続けることができたのでしょうか。振り返ると、わたしたち教会の周囲でも、多くの方が主イエスの許に足を運びながら、同じくらい多くの方が、教会を去って行かれたのではないでしょうか。その意味で、今朝、わたしたちが共に礼拝に招かれ、教会につながり続けているのは、単なる人間的な努力や修練を超えて顕される、神の恵み・憐れみ、聖霊(神の命の息吹)の働きによるものなのです。
 後の伝承によれば、十字架の主イエスを裏切ってしまったペトロが、ローマによる激しい迫害の中、復活の主イエスに再び見えます。「クォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、何処へ行き給う)とのペトロの問いに、主は迫害から逃れようとするペトロに代わり、再びご自身が死ぬことを示唆されます。かつての失敗を繰り返すまい、この時にペトロは、主イエスに代わって殉教の死を遂げるのです。「わが行くみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど、 主はみこころ なしたまわん。 そなえたもう 主のみちを ふみてゆかん ひとすじに。」(讃美歌494)この信仰の告白をもって、これからも共に歩ませていただきましょう。

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