2017年9月3日 聖書:マタイによる福音書13章24~43節 「待っておられる主の忍耐」世良田静江牧師

 この箇所は、毒麦のたとえとなっています。イエス様は殆ど譬話でお話をされました。日常の生活、自然の中での営みでの気づき、その事を丁寧にわかりやすく誰にでも理解できる平易な言葉でお語りになられた。天国は良い種を自分の畑に蒔く人に似ている。ところが人々が眠っている間に彼の敵がやって来て、麦の中に毒麦を蒔いて逃げていく。その話が43節まで続くのです。これは非常に難解な譬話です。私たちは神に似せて作られた。それなのにどうしてこの世にはこんなにも悪がはびこっているのでしょうか。言葉にするのも痛々しい悲しい事件。3ヶ月の乳児を踏みつけて殺してしまった母親。子どもを虐待する父親等と毎日事件に枚挙にいとまがありません。けれども、よくここを読みますと、良い実を結ぶはずの信仰者の集まり、教会の交わりの中に毒麦や雑草がどうして生えるのか不思議に思います。神様が蒔かれたところにもサタンは蒔くのです。聖なるものに近づく時、悪しき者も力をふるうのです。清いものがいつも汚れた者との戦いの中で育てられてゆきます。この世界には神と人間がいるのではなく、神に敵対する者もいるのです。サタンという言葉はよく使う言葉ですが、人間には意志があります。この世界には世界を良くお造りになり、愛をもって保ち導いている神さまに敵対する意志があるので、神の畑といわれていることに注意しましょう。たとえどんな敵がいてもサタンという神にそむく意志が存在すれば毒麦ははびこっていきます。けれども毒麦がはびこっても、良い実を圧倒するかに見えても決してサタンの畑になりません。この世の罪を負われる十字架の主のみこの悪の根源と限界を知っておられる。ここには最後の審判が記されています。良い麦を一緒に抜くかも知れない。忍耐を持って待つ時、悪人が変わることもあるでしょう。一人よがりに毒麦を抜こうとするのではなく、神への信仰をもって私たちは主の愛を伝える者になりましょう。毒麦は最後の審判まで良い麦より立派に見えているのかも知れません。

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