筑伝奉「世界聖餐日」合同礼拝 2017年10月1日      聖書:使途言行録1章3節・ルカによる福音書24章44~49節「復活の主を信じる」川本良明牧師

厳しい時代が迫っている今だからこそ主の復活を客観的事実と信じる復活信仰に招かれたいと思います。主の復活の客観性を決定的に裏付けるのが使徒行伝1:3です。著者ルカはこの40日間のイエスとの交わりを、彼の書いたルカ福音書24章で簡略かつ豊かに伝えています。その最後を読みます。注意すべきは、復活のイエスが語っているということです。弟子たちは、死んだイエスが目の前で飲食するのを見て衝撃でしたが、あれほど多くの奇跡や不思議なわざを行なう力を持っていた彼が、自分から進んでむざむざ十字架につけられていったことはさらに大きな衝撃でした。その彼らの心の目を開いて、つまり聖霊を授けて聖書全体を悟らせたとき、彼らは、主の苦難と復活が神の驚くべき愛の業であることを知りました。罪に支配されている私たちを憐れむ神の御子が、その聖さ、力、栄光を損なうことなく、へりくだって人間イエスとなり、罪への容赦ない神の裁きを、私たちに代わって裁かれてくださった。しかもそれが初めから神の計画であって、その計画を彼が成し遂げたことが確かであることを宣言するために神は彼を復活させたのでした。
 この決定的な出来事は、主の復活が客観的事実であればこそゆるぎないものとなります。そして、このことを信じる時、自分の人生をじつに恵み豊かになることが赦されます。
 たとえば私たちは過去・現在・未来という時間の中で生きています。そして生きとし生けるものはすべてやがて死を迎え、時間はなくなり、終ります。こういう私たちと同じ時間の中に神はイエスとなって生き、33年間の人生を送り、やがて十字架に死に、時間を終えました。ところが彼だけは死んでも終わらず、新しく始まりました。こうして人間イエスは、すべての時間を超えた永遠に生きるお方であることを神は世界に示されたのです。
 だからイエスは、使徒たちに律法や詩編、預言書のことを教えましたが、じつはイスラエルの歴史の中に彼は生きていて、詩人や預言者に語りかけたのであり、それが聖書として残ったと言えます。だからこそ聖書は命の言葉なのです。そして私たちも、主が語りかけてくださることを求めて読む時、聖書は命の言葉として読むことが赦されます。
 主が永遠に生きるお方であるとは、私たちの誕生前にも主は共におられたし、自分の過去をふり返るとそこにも共におられ、今もこれからもおられ、やがて時間の終わりが来た時、そこにもイエスが待っておられる、しかもそれが確実であることを意味します。
 イエスが30年間、ずっと永遠の今を生きていたように、私たちも主と共に真実に生きることで永遠の今を生きることが赦されます。これまでも単に共におられただけでなく、時には鞭、杖を、愛を持って力づけて歩んでくださった主は、これからもふさわしい時にふさわしい形で導いてくださるはずです。その約束を信じて、共に歩んで行きましょう。

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