2017年11月5日(永眠者記念礼拝) 聖書ローマの信徒への手紙5章12~21節    「永遠の生命へ導かれる主」世良田静江牧師

永眠者を記念するとは在りし日の健やかにこの地上で過ごしていた日を回顧するだけではありません。死という避けようのない事実に対して沸き上がってくる感情の事実に対して私たちはどのように考えるのか、このことをパウロは語ろうとしているのです。この死という避けようのない出来事に対して、命を与える主である神がどのように関わってくださっているかという事実を全く新しい視点で見つめ直す、死と復活の間にある陰府(よみ)、死の経験をした者が最後の審判を待つために、その身を置くところと考えられています。そこで十字架の死を経験したイエスがすべての命をイエスと共に復活させてくださるのです。
神は裁きの方ではありません。イエス・キリストを通し、すべての命に平安を約束されたのです。確かに長い人生を、信仰をもって歩んできたとしても、死を迎えることは不安や一抹の寂しさを感じるかもしれません。けれども私たちには約束されたことがあります。私は亡夫の死を通して、神はその人にふさわしい終わりの時を与えられる方であることを確信しました。痛みに苦しみ続けたのに、死する時、召されるその時は、何の死への恐怖も痛みもなく一瞬でした。穏やかな召天でした。
若い時、田舎の教会で一生懸命、教会員のご家庭を自転車で訪問することは日課でした。炎天下の夏の日の訪問は「やめておいたら」と思う私に手を振って出かけていく、まさに汗と涙で蒔き、一人の救いが喜びの叫びや賛美でした。貧しい生活の中で、注解書を買うために、食事を一日2食にしてでも、本を求めた姿勢は今も私の心の中に信条としています。その遺産を、今、私は使っています。「人は目に映ることを見るが、主は心によってみる」(サムエル記上16章7節)人間と神は見る視点が違うのだというのです。
永眠者記念日礼拝でいつも気づかされるのは、亡き人の在りし日を時が経てば経つほど、むしろ、その人本来の思い出が鮮明になっていく、それは、神に対しての日々の姿勢であったということです。現代人は死にたくないという思いが強いと言われます。仏教にも源信が書いた「往生要集」という生き方、死に方マニュアルがあり(985年)、人々はそれを説法されていました。旧新約聖書には「人間とは」がすべて示されてします。だからこそ、召された人を思いつつ私たちの日々が問われていると思います。
天に召された人たちの信じる姿勢、周囲への温かい眼差し、礼拝遵守して歩んでいた姿、その所作などがいつも目の前にあり、そのようになりたいと心を奮い立たせてくれます。それは神がそこに朽ちることのない命の輝きを示されていたからでしょう。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(ローマ書5章21節)永遠の生命へと導いてくださる主と共に歩み続けることを、新たに心にとどめる礼拝へと導かれていきましょう。

聖書のお話