2017年11月26日 聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ   15章50節~58節 「生きること 死ぬこと」豊田 護兄

仕事の関係で毎日人の死の報告を耳にします。先日は生徒が亡くなりました。人は死ぬ時にその人の「存在」の意味と価値が分かる様な気がします。人は物理的な存在とは別に、目に見えない存在が在ります。葬儀の場で人が涙を流し悲しみにうちひしがれるのおはそのためです。「あの人がいたお陰で・・・」「どんなに大切な人だったことか・・・」「あの人の存在が自分にとってどんなに大切であったか・・・」などの言葉を聞くだけでもその人の存在の意味を気がつかされます。
 もしその人の死に際して、それらの言葉が聞かれなかったとしたら、その人の「生きた」という意味はなんだったのでしょうか。人の価値は、お金を多く稼ぐ事でも地位を得ることでもありません。その「存在」に大きな意味があるのです。重症の障害を持った生徒が亡くなりました。保護者は毎日毎日大変な介護を必要とします。自らの生活や楽しみは考えずに毎日を過ごさなければなりません。でも亡くなったときの悲しみはとても深く「あの子がいたおかげで・・・」「どんなに大切な存在だったか・・・」という声を聞きました。半面健康な肉体を持ち何の不自由もないのに、自分のことだけしか考えず、他人に迷惑ばかりかけている人たちが沢山います。私の周りにいるそれらの人は、その「存在」や「生きている」ことの意味など全く考えていないようですし、生きていることを当たり前だとしか考えていません。
ヨハネの黙示録の14章の13節に「今から主に結ばれて死ぬ人は幸いである。彼らはその労苦を解かれて安らぎを得る。その行いが報われるからである」とあります。「その行い」とは何なのでしょうか。コリントの1には「死は勝利に飲み込まれた。死よお前の勝利はどこにあるのか。」とあります。生の後ろにある死を通して、「死を超える生」について私たちは日々考えていなければなりません。

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