2017年12月24日 聖書:マタイによる福音書2章    1節~12節「神の御子は来られた」川本良明牧師

 商店街や家庭でも一般化しているクリスマスには、楽しい何かを期待させるものではありますが、私たちは神様からその楽しさや喜びの根拠を知らされていることをおぼえて感謝したいと思います。クリスマスのもとは、聖書が伝えている3つのキリスト誕生物語なのです。それぞれの内容はちがいますが、「おとめであったマリアが、神の一方的な働きかけで身ごもった」ということでは共通しています。キリストの誕生は、天地創造と同じように信仰を求められる出来事です。
 たとえばマタイ福音書には、<母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。>とあります。これを誰が信じるだろうかと思います。婚約者のヨセフも大変苦しみました。その彼が神の恵みによってその事実を受け容れることができたのですが、私たちもこの事実を単純に信じることが許されているということは、神の恵みによるものであるということです。そのことを感謝したいと思うのです。

 しかし聖書は、なぜこのようなことを、堂々と伝えることができているのでしょうか。その秘密は、死者の中から復活したイエス・キリストにあります。使徒パウロが、<キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です>と力を込めて語っています。もしイエスが復活していないとすれば、クリスマスは二千年前に短い生涯を終えたある特別な人の誕生を記念する祭りとなってしまうのではないか。しかしイエスは復活されました。

 ですからクリスマスは、単なる二千年前に作られた神話の物語ではありません。過去・現在・未来の時間のすべてを超えていつの時代にも生きておられるイエス、先ほどの讃美歌「むかしいまし、いまいまし、とわにいますしゅをたたえん」つまり過去・現在・未来の時間のすべてを超えていつの時代にも生きておられるイエス御自身が、すべての人を罪と悪にまみれた暗い世から救い出すために、二千年前に赤ん坊として世に来られ、神様の計画に従ってなすべき事をなし終えた、そのことを繰り返し繰り返し、その都度、いつの時代においても新しく語りかけ、伝えてきた、つまり復活のイエス御自身が伝えてきた生きた命の言葉であり、命の物語であることを私たちはしなければならないし、そのことを信じるならば、これほどすばらしく喜びに満ちた物語はないだろうと思うのです。

 先ほどお読みした誕生物語も、悪と罪にまみれた暗い世を予感させます。<イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。>と書いてます。このヘロデ王は、ローマ帝国からユダヤの王に任命され、優れた才能を発揮して多くの公共事業を手がけたことからヘロデ大王と呼ばれますが、強い猜疑心と残忍な性格から身内の者も多く殺しています。そのため宮殿は、いつも不安に包まれていました。そういうとき東方の占星術の学者たちが訪問してきました。占星術とは、多神教をもとにした一種の占いです。天体を神々の働きと見て、特に惑星の動きから個人や国家の運命を占う職業です。

 じつは東方には、かつてバビロニア帝国時代に捕囚民として連行されたユダヤ人の子孫が多く住んでいました。ペルシアが興って捕囚は終わり、ユダヤ人はエルサレム帰還を許され、神殿を再建して新しい共同体を作っていきます。しかしそれは一部であって、多くのユダヤ人は東方に残ります。彼らは聖書の民であり、多神教も占星術も断固拒否していました。占星術の学者たちが、<ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこのおられますか。その方の星を見たので、拝みに来ました。>と尋ねた言葉には、このユダヤ人と聖書の影響を感じます。彼らは特別に光る星を見て、まことの光のしるしを見たのではないではないかと思います。

 聖書の創世記の最初の天地創造物語に、<初めに、神は天地を創造された>に始まり、すぐに<神は言われた。「光あれ。」すると光があった。>と書いています。この光は何だろうかと思うのです。太陽ではありません。というのは後のほうには、神が大空に大きく光る物と小さく光る物を造り、昼と夜を治められたとあります。明らかに太陽と月のことなのに、そう書かなかったのは、バビロニアを初めどこの国でも太陽や月は神として拝む偶像崇拝を避けたからです。太陽も月も知っていたのです。私たちは自然の光は太陽によると知っています。だから最初に神が<光あれ>と言われた光は、太陽ではなくまことの光です。詩編など聖書には、その光を讃える個所がたくさんあります。ですから学者たちは、特別に光る星を見て、まことの光のしるしと確信し、聖書に書いてあるのでユダヤ人の王の誕生のしるしであり、その王は天地創造の神がもたらす世界の王と見たのでした。

 彼らは尋ねたけどいないことが分かり、宮殿を出てベツレヘムへ向かいました。その時、<東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた>と書いています。これは私たちに大事なことを教えてくれます。彼らは、これまで特別に光る星を見ながら旅して来ました。ところが今、その星自身が動いて、先立って進み、幼子の所まで導いたのです。
 今までの自分を中心にしていた生活から神中心の生活へと変えられたことは、このことを言っています。私たちは自分の信仰の内部をあれこれ詮索することが多いのですが、そういうことから解放されて、信仰の対象である神に目を向け、神にゆだねる生活に導かれることが、ここで教えられています。自分が主語で神が述語であったのが、神が主語で自分が述語に逆転するとき、<学者たちはその星を見て喜びにあふれた>のと同じように私たちも同じ恵みに与る者とされます。
 彼らは幼子ではなく、その星を見て喜びにあふれたと書いてあります。それは、その星がまことの光である神ご自身であることを確実に知ったと同時に、その幼子が、神ご自身とまったくひとつであることを知ったからです。

 誕生物語は、イエスの復活を振り返って書かれています。なぜならマタイ福音書は、イエスが復活して(紀元33年頃)50年以上も経って、それまでいろいろ伝えられていることをもとにして書いているからです。ですから占星術師だった外国人が選ばれているということは、イエスの福音がユダヤ人から一気に異邦人の世界に伝えられることを示しています。また彼らが見た星こそ復活した永遠の神の子を示すものであります。さらに彼らがひれ伏して拝んだ後、献げた贈り物は十字架の死を示すものでした。特に乳香・没薬はそのことを示しています。
 そして最後に、エルサレムに君臨していたヘロデ王が、ベツレヘムで生まれた2才以下の幼子を皆殺しにした事実を伝えています。これはイエス・キリストが十字架の死をもって戦い、神の敵であり、人類を悲惨な現実に陥らせている不気味なサタンの存在を示しています。よく考えてみると、ヘロデ王は神の子を殺すために2才以下の男の子たちを殺したのです。これは、神に選ばれたユダヤ民族を600万人以上も虐殺したヒトラーとナチスの出来事に重なっています。

 イエスは十字架の死をもって、サタンが支配する現実の世に勝利したお方として復活し、今も神の右におられて世界を神の国へと最後の時に向かって導いておられます。そのことを考えると、人類が招いている悲惨な現実は、確かに数知れず起こっています。十字架の死よりもっとひどい悲惨なことを人間は行なっています。けれども神ご自身が御子イエスにおいて引き受けられた悲惨は、人類の誰一人として背負ったことのない苦難であり、悲惨であり、凄まじい苦しみです。私たちはそこに目を向けなければなりません。いろんな悲惨なこと、酷いこと、また自分自身にとっていろんな辛いこと、苦しいことがたくさんありますが、神の子イエスが苦しんだ苦しみは、そんな比ではありません。永遠の死を滅ぼすイエスの十字架の死、あるいは神に徹底的に裁かれて死んだイエスの苦しみは、神ご自身が引き受けた私たちを救い出すための十字架の死の苦しみです。このイエス・キリストが来られて、今、ここで、生きておられ、私たちと共におられることが確実な現実であることを示しているのがイエスの復活の出来事です。そのキリストが私たちの救いのために、おとめマリアから生まれるという形で世界に来られたのがクリスマスです。復活したイエスをはっきりと見すえ、この大きな喜びを共に味わいながら、クリスマスを共に迎えたいと思います。

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