2017年12月31日 聖書:マルコによる福音書11章22~25節 :ヘブライ人への手紙4章14~16節    「あなたは高価で尊い」樋口公子姉

クリスマスの出来事とは、神様が人間の姿となられた、ということです。つまり
私たちに希望を与え、勝利されるために、人と同じ姿になられる必要があった、
ということです。一体それはどうしてでしょうか?
私はこの一年、個人的につらいできごとの真最中でした。神に祈れず、従えない
状況であったのです。それは私にとげが与えられたからでした。とげというのは、
原文でテントを張る杭のことを言うそうです。パウロは、コリントの信徒への手紙
Ⅱ12章7節で、それは弱さ、だと言っています。つまり、とげとは、人の苦しみ
、困難のことですが、苦しみというのは、みんな同じではありません。それぞれ
その人にとってのものです。私は神様に従うことができない誘惑にあったのです。
私は神様に文句を言い怨みました。なんでこんな目に合わせるのか。と。私は神様
のために出来ることを精いっぱいしていこうと頑張っていました。奉仕もちっとも
苦痛に感じず、人に対しても誠実を尽くそうと祈りつつ歩んでいたのです。そんな
私の一番の弱さを徹底的に攻撃する出来事が起こりました。神様に何度も祈り、
何とかしてくれと祈ります。でもどうすることもできません。神様を怨みました。
私は自分を責めました。自分は罪びとだ。自分はどうしてこんなに愚かなのか。
周りの人が、とても偉く見える。周りの人が幸せを掴んで、強く輝いて見える。
自分が情けない。打ちひしがれていました。その時、神様の声が聞こえたのです。
「あなたは私の目に、高価で尊い。」私は罪で汚れていました。どう考えても神様
からも人から見ても尊くありません。でも神様がそう言っている声がしました。
その時その言葉の背後にそのままの自分が、罪があるけれど私には高価で尊い大切
な存在だと言われているように感じたのです。その時に次の聖書の箇所が入ってき
ました。それは姦淫の場で捕らえられた女の話です。ヨハネによる福音書8章では
律法学者とファリサイ人が姦淫の場で捕らえられた女性を連れてきて真ん中に置い
てイエスに言います。「モーセはこういう女性は石打ちにするように命じています」
しばらくしてイエスは言います。「あなたがたのうちで罪のないものが最初に石を
投げなさい」それを聞くと年長者から始めて一人一人出て行き、最後にイエス一人
が残されました。イエスは言います。「婦人よあの人たちは今どこにいますか。
あなたを罪に定める者はなかったのですか」彼女は言います。「だれもいません」
イエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい。今からは
決して罪を犯してはなりません」この女性は、自分ではどうすることもできない
状況に置かれていたのではないでしょうか。この女性の相手はどこにいたので
しょうか。他の人にはその女性の苦しみは分かりませんでした。でも私はその時、
その女性と自分が重なりました。神様はその女性の苦しみ困難を解っておられた。
私もあなたを罪に定めない。だからこんどからその苦しみに遭わないような
状況になって、神様に目を向けて生き、自分を大切にしなさいと。神様は弱さを
解っておられる方。そこに本物の愛があります。誰も大切にしてくれない時、
神でないものに心が引かれることはないでしょうか?でもそれは本物ではない
かもしれません。苦しみに出会うのは、私たちが弱さを通して、本当の神様と出
会って、どうすることもできない弱さが、自分の力でなく、神様の力によって強さ
に変えられ、いつかこの苦しみのお陰で自分はこんなに素晴らしい人生を送ること
ができたと思える人生に変えられるためなのです。神様にはできないことは何も
ないのです。本当の愛は自分を大切にしてくれるもの、高価で尊いと言ってくれる
ものです。クリスマスは、神様が私たちの弱さを引き受けて十字架にかかることに
よって実現されました。求める時、私が共にいるから大丈夫というメッセージです。

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