2018年1月14日 聖書:マラキ書4章1-6節      「終わりと始まり」 鈴木重宣牧師

 シンガポールに行ってきました。見るもの聞くことすべて初めてでとても楽しかったです。半年前におぼろげに考え、数ヶ月前から計画を立て、念願叶って行ってきました。大きな事故もなく無事に帰ってこられて本当に良かったです。一時よく聞いた成田離婚もなく、円満に過ごしています。そもそもなぜ新婚旅行でカップルは、旅行先のいざこざで互いに失望したり衝突したりするのでしょうか。旅行の際の幹事さんの感じる不満の一つに、参加するだけの人たちの盛り上がりの低さ、があるそうです。幹事として準備した分思い入れが深いため、参加する人の乗りの悪さに不満を感じるそうです。同じ景色を見ていても同じ気持ちを共有できていない、そんな悲しい現実に直面したとき、人は争い離れてしまうのかも知れません。
 ユダヤ民族が捕囚を解かれ念願叶って帰国し、エルサレム神殿の再建さえも叶いすべて順風満帆というとき、国は干ばつに襲われ、さらに飢饉によって民の生活は危機に瀕することとなりました。多くの民は失望し神から離れ堕落し、偽証や搾取が横行する世の中となってしまいます。まさに成田離婚状態です。
 願い欲するだけの祈り、満たされることを望むだけの信仰は、いづれ形骸化し失速してしまいます。私たちの主は、私たちが願わない先から備え与えて下さる方です。そんな主に対して、私たちがさらに何か加えてもらおうと祈るのか?そんな必要はありません。さらに言えば、与えられているものはすべて主によって備えられたものであるということです。病や欠けでさえ主は与えて下さいました。つまり、「病を取り除いて下さい」と祈るのではなく、弱さと、弱さにつながる力を与えて下さった主に感謝することが大切であると言うことです。
 マラキとは「我が使者」という意味の言葉です。旧約聖書の最後に記されているこの使者の言葉は私たちに何を示そうとしているのでしょうか。旧約においては神に愛されているものは力強く敵を打ち倒し、繁栄や豊穣が主に愛されている証でした。マラキで終わり新約が始まります。新約では、神が救い人がそれに応える、という関係へと変わっていきます。御利益宗教ではなく、強さや豊かさの象徴でもない、新しい人と神との関係が、マラキを通じて私たちに示され、新約へと受け継がれています。
 すでに救われた者の群れとして、主に応えるべくなすべき事をなして生きる。それが新約以降の人間の勤めであり、あるべき僕の姿です。繁栄を願うのではなく、主の導きを願い求め、主に喜ばれる者として歩みつづけましょう。

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