2018年1月28日 聖書:マルコによる福音書4章21~25節「自らの重さを知るということ」 豊田護兄  

 人は、毎日の生活を積み重ねています。その人にとって当たり前の特別ではない日常を繰り返し積み重ねています。人が「生きる」ということはそういうことです。
 人が「生きている」ということは、毎日何かを感じていることです。人と話し、人の話を聞き、食べ物を食べ、美味しく感じ、花を見、空を見、風に触れ、季節を感じ、冬は寒く、夏は暑く、春の風は薫ります。時には感じては涙を流し、喜び笑う、という当たり前の日常がどんなに素晴らしく大切であるか、
考えたことがありますか?

 ひとたび健康を害したり、事故にあい、寝たきりになり、それらを失ったときに初めてその大切さに人は気が付きます。先日京都に旅に出て、昔の絵を沢山見ました。長谷川等伯、海北友松、加納永徳、伊藤若冲、統べて私たちの日常にある季節のひとこまの美しさを描き出していました。特別な物ではなく、日常の中にその美しさを見い出していました。
 
 ルターは人に「明日、世界が滅びるとしたら、あなたは何をしますか」と問われ、「たとえ明日滅びたとしても、私は今日リンゴの木を植える」と答えたと言われています。日常の当たり前の毎日がどんなに大切なものであるかが良く分かっていたのだろうと思います。

 私たちは、日常の毎日の中に、神に与えられた自らの価値と重さをきちんと考え直さなければならないのではないでしょうか。

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