2018年2月18日 聖書マタイ による福音書5章1節~12節 「あなたがたは、わたしの民となる」川本良明牧師

 この2ヶ月間に2月11日(信教の自由を守る日-建国記念の日-)と2月初めに外キ協全国集会が開かれた北海道に行き、先住民アイヌ・近代の囚人労働・戦前の中国、朝鮮人強制連行の血と涙で開拓された実態を教えられました。同じ人間でありながら、どうしてこんな酷いことができるのか、どうしたらこのような現実から脱出できるのか、その希望はただ真の神である真の人間イエス・キリスト以外にないことをあらためて考えさせられました。そのために山上の説教と「あなたがたは、わたしの民となる」という神の約束に目を向けなければならないと願い、今日の聖書個所と説教題とした次第です。

 戦後間もなく、東北地方の学校の子どもたちの間に「勝手だべ」という言葉がはやり出しました。悪いことをして先生から注意されると「勝手だべ」というのです。これは「束縛からの解放」という自由の1つの面を表しています。しかし自由には、「みずから選びとって責任を負う」という面もあります。「~からの解放」と「~への責任ある選び」という2つの自由を同時に生きることへと導かれたのが、出エジプト後のイスラエル民族でありました。すなわちモーセの指導によって、古代エジプト帝国による長い奴隷生活から解放された彼らは、シナイ山の麓に導かれて、そこで神から十戒を授かりました。奴隷身分から解放された後、十戒に従って生きることを選んだのです。それは神が、彼らを神に選ばれた民としてふさわしい人間に育て、人間として完成させるために授けたものでした。

 そこで彼らはこの十戒を、全人類を代表して特別に神から授かった掟として、<律法>と呼んで大切にしてきました。掟とか律法と聞くと、何か嫌なひびきがあります。しかしもし神が、罪と悪にまみれている私たちに福音をたずさえて来ようとすれば、命令や指示、掟や勧め、警告、戒めなどの形を取らざるを得ないのではないでしょうか。しかも本来福音であるはずの律法が、罪人の手に渡されると、罪は律法をゆがめ、律法を悪用してかえって罪を増大していきます。
 このカラクリを、パウロはローマ書7章7節以下で展開しています。すなわち罪は、律法がなくても私たちの内にありますが、姿を見せることはありません。ところが律法に出会うと罪は目ざめて、あらゆる罪を引き起こします。たとえば、律法が「貪るな」と要求すると、罪は、「この律法の要求を自分で満たし、貪らない人間になる努力をして、神に認められる者にならねばならない。神は私が神と並ぶもう一人の神となること望んでいるのだ。」とささやくのです。

 このことを私の体験から分かりやすく説明しましょう。私は高校3年の時に初めて聖書を読み、山上の説教や十戒などを知りました。世の中には、人間が正しく善い人間に成長するための立派な教えが数多くあることを知り、またそのことに強く惹かれていた私は、聖書の教えに出会ったとき思いました。「これは神の掟である。どんな偉い学者や宗教家や道徳家の教えよりもはるかに優れた教えである。だから人間として成長するためには最もすばらしい戒めである。これを実践すれば理想的な人間になれる。」そう確信した私は、その実践を試みたのです。<兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。><みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。><悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。><敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。>いったい誰がこれを実践できるでしょうか。

 これを実践しようとした私は、打ち砕かれ、目の前にそびえる断崖絶壁をよじ登ってはズルズルと落ち、登っては落ちることを繰り返し、しだいに無気力となり、万策尽きて、生きる望みも断たれた私は、孤独と苦しみの中にありました。そのようなとき教会の年配の方が私に告げたのは、「神は愛である」という御言葉でした。このような惨めな私がそのまま受け容れられ、愛されていることを知った私は生き返り、洗礼に導かれたのでした。ところがどうでしょう。今度は、「主よ、私を憐れみ、受け容れて下さったことを心から感謝します。これからは神と人のために頑張りますから見ていて下さい!」と決心しました。私は再び大きな過ちを犯すことになったのです。いっさいを神にゆだねないで、自分の力で神の愛に応えるようにそそのかされた私は、神に代って裁きの座に就き、自分を裁き、人を裁く、不従順な生活を始めることになったのです。

 先ほど山上の説教の初めの部分を読みましたが、私たちは罪にそそのかされて、誤って読むことが多いのではないかと恐れます。山上の説教はイエスが語った戒めが書かれていますが、それはただ彼自身の行ないを問題としています。だからその言葉をイエスから切り離して読んではなりません。山上の説教者がすなわち山上の説教なのです。しかし一般には、当時のいろんな問題についてのイエスの見解であるとして読まれてきました。そうすると、「彼の見解だから同じ問題について異なる見解もある」と批判されます。現代の平和問題や原発問題など、古代になかった数多くの問題がありますが、それはいつの時代でも言えることです。そこで山上の説教を、旧約の掟と関係させて、命、結婚、真理、正義、交わりといった5つの人間生活の根本原理として読むことになります。これこそ山上の説教に対する根本的にまちがった読み方です。

 山上の説教だけでなく、イエスが命じる戒めを聞くとき、片時も目を離してはならないのは、<わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。>(マタイ5:17)という言葉です。この言葉を切り離して、彼がたまたま抱いていた単なる見解として読むならば、たとえ律法学者やファリサイ人たちよりも鋭い意見であると重んじても、律法の完成者としての権威を認めず、神の子であり、神から遣わされた者としての権威を無視しています。「イエスはこういう見解を持っているが、私はちがう」という風に、イエスと自分が対等に語れる立場にあると考えているのです。しかし彼は、月が太陽から光を受けて輝いているようなお方ではなく、太陽そのものです。その彼が、命をかけて私たちのための命の戒めを完成して下さったのです。

 私たちもまた山上の説教を聞くとき、正しく読み取ることが大切です。<心の貧しい人々は、幸いである。悲しむ人々は幸いである。柔和な人々は幸いである。義に飢え渇く人々は幸いである。憐れみ深い人々は幸いである。心の清い人々は幸いである。平和を実現する人々は幸いである。義のために迫害される人々は、幸いである>と聞いて、ただちにそれを実行するように求められていると思って、それらを実行しようとするのは、一見、キリスト者として正しいことをしているように見えますが、そうではないのです。それは、<わたしは、あなたのために律法を完成したのだ>と言われているイエスを無視して、彼を飛び越えて、それを実行しようとしているのであって、これが私たちが陥っている現実ではないでしょうか。

 神がイエス・キリストにおいて果たしてくださった恵みのわざが2つあります。1つは、<わたしは、あなたがたの神となる>ということです。そしてもう1つは、<あなたがたは、わたしの民となる>ということです。神がおとめマリアから生まれて私たちの間に宿られ、十字架の死によって私たちの罪を贖い、罪をゆるしてくださって、永遠に私たちと共におられるお方となってくださいました。<わたしは、あなたがたの神となる。>これは本当にすばらしい神の愛のわざであります。けれども神の愛のわざは、それにとどまりません。罪をゆるすだけでなく、罪ゆるされた者にふさわしい者にしてくださるのです。<わたしは、あなたがたの神となる>だけでなく、<あなたがたは、わたしの民となる>ことをしてくださるのです。
 つまり神は、イエスを十字架に死なせることによって、私たちの代わりに罪を裁いてくださったのですが、私たちを罪ゆるされた完全な人間にしてくださるために、イエスを完全な人間として復活させられたのです。これもまた神のおどろくべき愛のわざなのです。ちょうど重病の患者の手術に成功した主治医が、患者をなお続けて通院させて、完全な健康な身体にもどすために治療を続けるのと同じです。しかしその治療は、手術前の不安や恐れのない、うれしい治療です。

 神の敵であった私たちを、罪ゆるされた者にふさわしい神の子としての風格、品性、資質や資格を備えさせるために、神は私たちを新しく造り変えるのです。これをパウロは、「イエスの似姿になる」(ローマ8:29、Ⅰコリント15:49など)、や「イエスを着る」(ガラテヤ3:27、Ⅰコリント15:53~54など)などの言葉で表現しています。つまり神は私たちをそこまで面倒を見てくださるのです。そうして私たちは、「キリストを仰ぐ者、キリストを信じる者」から「キリストの中にある、キリストに在って生きる者」とされ、人間イエスと同じように父なる神に「アッバ、父よ、天のお父さん」と呼びかけて生きる者とされるのです。
 皆さんご存じの放蕩息子の話を見ますと、放蕩の限りを尽くして行き詰まった彼が、「お父さんの所に帰ろう。しかしもう自分は息子と称ばれる資格はない。せめて僕の一人としてここにおらせてくださいと言おう」と決心して帰ります。ところが父は、はるか向こうに息子の姿を見ると走って行って抱き、ふところに抱かれた息子が、「お父さん、私は息子と呼ばれる資格はありません……」と、言うのをさえぎって、「指輪を持って来い、新しい服を着せよ」と言います。
 先ほどの話に戻りますが、帰って来た放蕩息子を、この後、父親はどのように面倒を見たのだろうかと思うのです。話はあそこで終わるのではなく、身も心もぼろぼろになって帰って来た息子を、父は、愛の父は、自分の息子にふさわしい完全な父の子として育てていったのではないかと思います。

 それはどういう人間なのでしょうか。それが山上の説教で示されている人間だと思うのです。<心の貧しい人に、罪に悲しむ人に、柔和な人に、、義に飢え渇く人に、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエスのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことのためにあらゆる悪口を浴びせられる人に>、そしてイエスご自身から<喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある>と言われる人間になる、すなわちイエスの似姿としての人間ではないかと思います。もちろんこれらすべては、まだ約束にすぎません。<天の国は、その人たちのものである>という言葉は、未来的現在形つまり<その人たちのものとなるであろう>という約束の言葉です。第二から第七までの言葉も未来形です。しかし、それを語っているのはイエスご自身です。十字架に死んですでに戦いに勝利して、復活したイエスご自身の言葉です。ですから今、この言葉を聞いた今、そのことを証言するとき、すでにそれは現実の力となって、私たちは神の民にふさわしいものとされるのです。そのことを信じて、希望をもって共に歩んでいきたいと願っています。

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