2018年3月4日 聖書:ルカによる福音書10章38~42節 「マルタとマリア」世良田静江牧師

 本日の話は「彼らは出かけていくと」から始まります。イエス様一行はマルタという婦人に迎え入れられたという始まりです。四福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカの福音書にはイエス様のたとえが語られた話が収められています。43篇ほどあり、かなり似たような、むしろ同じようなものを含めてですが、多くの方がこの譬え話に接していると思います。このたとえ話は深い意味、真の意味が日常生活に中で気づかされるものが多いのですが、例えば、良きサマリア人の話「困った人を見つけたら助けてあげましょう」とか放蕩息子の話「人生に失敗した息子でも、帰って来たら温かく迎えましょう」福音書の記者はこの様な台詞をイエス様が言われたと言えば簡単に済む話ではないのです。たとえ話という手段を用いなければ実際に深い神の国の話が出来ないからなのです。イエス様のお話を聴いた2000年前の人々は農耕や牧畜をしていた人々でしたから種まきの話、迷子の小羊の話など、理解できるように日々への暮しの生活の中で語られた譬えであったと思います。たとえ(Parable)はイエス様が語られた神の奥義を語られたものでしょう。そのたとえの中に今日のマルタとマリアのエピソードが入り込んでいる。マリアはイエス様の足許に坐り話を聴き入る。一方、マルタはもてなしのために右往左往してとうとうイエス様にまで文句を言います。そのマルタに対して「本当に必要なものは唯一つ。マリアはその良き方を選んだのだからマルタ、それを取り上げないで」とイエス様のお言葉が聴こえてきます。マルタを否定したり叱ってはいないのです。私たちの日々の暮しで多くのものを与えられているのに、更に貪欲があります。まず、神の国と神の義を求めているでしょうか。「マルタにならないでね」という風にとるならば、聖書は道徳と全く変わりません。日常の中で思い悩み患うことは沢山あります。でも無くならないものは唯一つと主は言われる。ルカはその事を深く心にとどめエピソードとしてここに記したのでしょう。このマルタの家は十字架途上への入り口だったのではと思います。主はご自分の体と血とを私たちの救いのために投げ出されました。食卓は主ご自身が私共に与えてくださるのです。以上のこと深く深く主のみ言葉を味わいましょう。

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