2018年3月18日 聖書:マルコによる福音書1章9節~11節 「天が開かれた」 岡田博文兄

マルコ福音書が、主イエスについて、最初どのように物語を語り始めたか。とても興味深いものです。「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからを受けられた」(9節)。ヨハネが人々に、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた時、主イエスもまた故郷ナザレから出て、群衆に混じって、彼からバプテスマをお受けになりました。
ヨハネのバプテスマは、私たちが罪を悔い改めて、神のゆるしを受けるためのものでしたから、
もともと罪のない、神のひとり子である主イエスが、バプテスマをお受けになる必要はなかったはずです。しかし主イエスは、私たちを罪の力から救い出すために、私たちと同じ罪に汚れた人間の立場に身を置いて、バプテスマをお受けになったのです。 
バプテスマはキリスト教信者になるための、単なる儀式や悔い改めのしるしであるだけではありません。何よりも、私たちの罪をゆるすために十字架におかかりになった主イエス・キリストと私たちとが、「一つに結ばれることのしるし」です。
 教会はバプテスマを根拠に立っており、私たちが、「主イエスの仲間」だということです。私たちは、みな主イエス・キリストに出会い、バプテスマを受けた。だから私たちはみな、神の子供だというのです(ガラテヤ3章26節以下)。私たちが今ここで行っているのは、神の子の礼拝です。
  主イエスがバプテスマを受けられた時、3つのことが起こりました。
 10節には、「水の中から上がるとすぐに、天が裂けて、“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった」 とあります。主イエスはバプテスマを受けられて、水から上がられた時、何を「ご覧になった」のか。
第一は、「天が裂ける」ということでした。
この時期イスラエルの人々の歴史はまことに暗澹たるものがありました。暗かった。黒雲に閉ざされっぱなしというほどのものだったのです。先の見通しがつかず、希望が持てませんでした。天が見えない。それは神が見えないということです。神の御業が見えないということです。
 第二に、「“霊”が鳩のように」、天が動いて主イエスの上に降ってくるのをご覧になりました。
イエスが、バプテスマを受け入れられた時、神の霊が今新しく動き始め、主イエスに降ってくる。新しい時の始まり、新しい歴史の始まりです。
 第三番目に、天から神の声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」(1章11節)。私たちは今年一年、いつでも、どんな所でも、開かれた天を仰いで神を讃美する、礼拝を捧げるのです。また、神の声を聞くのです。
 最後に、多くの聖書学者は、「天が裂けて」という言葉を、マルコ福音書15章38節にある
「裂ける」という言葉と併せて読むことを求めています。マルコは、主イエスの十字架の死について語りました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15章33節)。
まさに暗黒の真只中で、絶望の極致で死んでいかれる主イエスのお姿を描き出しました。
しかし、37節以下に、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。主イエスが地上の生涯を始められた時に天が裂け、その生涯の終わりにおいて、ユダヤの神殿の幕が裂ける。ただ天が裂けただけではない、神が地上に来てくださっただけではない、もうユダヤの神殿もいらなくなった。どこででも、いつでも神様にお会いする道が開かれた。しかもすべての人が、誰もがお会いできるようになったのです。
 主イエスの正面に立っていた百人隊長は、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(39節)。ここには、バプテスマをお受けになった
主イエスがお聞きになった天からの声に答える、地上からの声があります。
いつも私たちが認めなければならないのは、自分が罪人であることを、主イエスほど、真剣に考えたことがなかったということです。みずからの罪を深く知ることがいつも足りない。だから、
信仰がぐらつくのです。だから、信仰生活がいい加減になる、曖昧になるのです。
主イエスとは誰か。私たちと同じようにバプテスマを受けた方。そう知った時にこそ、私たちは帰るべき所に帰ることができるのです。  
 ローマの百人隊長は、「『本当に、この人は神の子だった』」(39節)告白しました。
私たちもまた、日々、はっきりと、告白しましょう。
「主イエス・キリストこそ、まことの救い主である」。

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