2018年3月25日 聖書:ルカによる福音書17章11節~19節「主に送り出されるとき」鈴木重宣牧師

○サマリヤとユダヤの間
 両方の町から阻害され、排除され、存在を認めてもらえていなかった、双方からの町はずれに位置する所。本来人が住み、村ができるような場所ではない、間。当時触れてはならない罪人とされた重い皮膚病の者など、町に住むことが許されなかったものが集まり形成された村ではないだろうか。残され村、忘れ村、忌み嫌われる村といったところか。その人の間、存在の間、まさに排除と拒絶のただ中をイエス様は選んで歩まれた。受難節の今、苦難の道、苦難のある場所への歩みを続けられたイエスを覚える時。こここそ読まれるべき箇所であろうかと思います。
○残りの9人はいづこへ?
 イエス様に癒やされ祭司の元へと送り出された10人の内、戻ってきたのは1人だった。では、戻らなかった9人はどうなったのだろうか。それぞれの村へ帰って行ったのだろうか。イエスと出会った場所は排除された者が、穢れた者が住むよう定められた場所だから、本来戻ってくる謂われはない。ではその9人、或いは常識的に考えて戻らなかった9人のその後を想像してみる。ある人は、祭司に会いに行こうとして、妻子に会いに行っちゃった、とか。ある人は途上で強盗に襲われ、元ライ病人であることが祭司やレビ人にはすぐにわかったため、道の反対側に避けられた。またある人は、道に倒れたけが人を助け、その後に祭司に会いに旅をすすめた。
○9人は否定も非難もされていない
 体を癒やされたのに、こころが変えられないはずはない。単なる身体的な治癒でとどまるはずがない。そしてなにより「還ってこい」とは言われていない。であるとすれば、残りの9人は、どこで何をしているのか想像に難くない。なぜなら、癒やされた者として、傷ついたものをほっとけなかったに違いないから。戻らなかったことがイエス様に咎められていないという事実も、すでに救われ、癒やされ、誰かの隣人として自ら歩み始めた9人を遠回しに肯定してるようにもとれる。○10人の内の1人
 イエス様のもとに礼拝のために戻ってきた、戻ってこれたのは1人だけだった。「他のものはどこにいるのか」というイエス様の問いかけは、これは読みかえれば、戻ってない9人を探し求めることを求められている、と読めなくもない。かつて聖書に出会い、礼拝に集い、教会のメンバーとして共に歩んだ友が、今この場にいない。すでに彼の地で働き休み、或いは動けずにいるこの場にいない友を、「どこにいるのか」とイエスは、私たちに問い、促しているように思える。受難の道を、苦難へと向かわれるイエスさまに従う者として、私たちは、10分の1の者として、残された9人を探し求めて歩み続けたい。
 

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