2018年4月8日 聖書:マタイによる福音書27章32~56節「共に行き共に死ぬ、そして」鈴木重宣牧師

 聖書の読み方は一つではない。全能の神が私たちのために与えて下さった聖書。人を高く超えて存在する神の御旨を人間が限定することなどできはしないのではないだろうか。有名な「ヤイロの物語」。実は隠された意味があるのではないだろうか。この箇所を金田一かホームズになったつもりで読んでみるとどうなるだろう。
疑問その① なぜ二つの物語がサンドイッチされている?
 従来、救いの遅延とか重複予定の苦悩、のように言われることもあるが、果たして本当にそんなことが言いたくてサンドイッチにしたのだろうか?
疑問その② 家からきた人は、「及びません」とイエス来訪を止めたのか」
 会堂長が一生懸命救いを求めているのに、どこか冷めている家の人たち。来てほしくなかったのではないだろうか?
疑問その③ 突然現れる両親
 イエス一行が家に着いたとたん、ヤイロという名前ではなく、両親というくくりになる。父と母。母はどこからやってきた?
 他にも、「なぜ娘は即起きれたのか?」「12年患いと12歳」「息子ではなく娘である理由は」 など、たくさんの疑問点があり、それらの疑問をすべて紐解くことができる、一つの解がある。それは。。。
 ヤイロは敬虔なユダヤ教徒。長血の病は宗教的な汚れにつながり、触れることも近づくことも許されない立場だった。患っていた女は12年間。娘は12歳。単なる完全数ではなく、単純に両者の間には関係があった。妊娠出産に伴う病を負った女が、12年間治療のため方々に手を尽くし、諦めかけていた。12年前、出産後に長血になり穢れとされ家を出されてしまっていた。夫は経験なユダヤ教徒で、会堂長を勤めるヤイロだった。その娘が12歳になり、初潮を迎え、血の穢れを知り、或いは自分の出自において母親に降りかかった事態を知ることとなり、引きこもり、生きる希望を持てなくなった。
 娘が動けなくなり、ヤイロは噂で聞いたイエスにすがろうとやって来る。異教徒あるいは弾圧の対象ともいえる敵であるイエスにすがるために。恥も外聞も立場も投げ捨てて、イエスに救いを求めたヤイロ。そして患った女も最後の頼みの綱として、イエスに奇跡を願いに来る。イエスの下で、家族が夫婦が、そして信仰の指導者と信徒が、再びつなぎ合わされる。誤ったあり方が正しい形に戻される。隔てられた罪でも穢れでもなく、神によって許しと愛によって一つにされる。
 会えなかった、欠けていた、そう思っていた家族が、一所に集まり、「起きなさい」との声かけが為される。全員そろった、会いたい人に会えた、そんな喜びにより、伏せっていた病は吹き飛び、閉じこもっていた日常もなくなり、拒食症だったのかもしれない、笑顔と感謝に満ちた食事が始められる。
 生きること、食べること。寝ること、起きること。祈ること、感謝すること。生活の中で大切な場面が沢山ある。それを、誰とどこでどのようにするか。それをともにすることが神によって出会わされた神の家族の本当に求められている事柄である。わたしたちも、共に生きる物として、共に座して共に食し、共に感謝を献げるような、家族のような集まりであり続けたいと思います。

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