2018年5月13日 聖書:コリント人への第一の手紙    12章3-13節 「御霊でつながる」鈴木重宣牧師

 今日は母の日です。父親の古希祝いをするために、先週子ども四人でサプライズ訪問しに東京に行ってきました。夕食の席に懐かしい家族の団欒を再現し、驚いた父は「遠いところから大変やろうに・・・」と涙ぐみ、その父を見た母がまた涙ぐむ、という映画のワンシーンさながらのひと時を過ごしました。まじめで頑固な父とひょうきんでおおらかな母という両親のもとに育てられた自分の性格は、それらの因子を受け継いでいるようです。30年前の家族団欒を追体験し思うのは、「この二人の子どもに生まれてきてよかった」ということです。母の日サプライズを特段計画しているわけではないのですが、「ありがとう」という単純な言葉では表現しきれない想いを、今後も何とか表現し伝えていければ、と思います。
 聖書には判るけれど解らない表現がたくさんあります。三位一体ともいわれる、父子聖霊の聖霊もその一つではないでしょうか。御霊。どんな数字にも計測できず、色臭も感じられず触れることもできない、いわゆる5感では知りえないものです。イエスさまが現代人に譬えて語られるとしたら、ひょっとすると、「御霊は電気である」といわれるかもしれません。電気がモーターを回し、電球を輝かせ、熱を起こします。情報を記憶し、信号を送ります。すなわち私たちは言い換えれば家電製品です。モーターで動く洗濯機や掃除機、電球やLEDで部屋を照らす照明器具、ホットプレートやIHヒーターや電子レンジで調理し、パソコンや携帯電話で情報をやりとりします。電気を受け取り動くモーターや加熱機や電子機器が機能し、生活のあらゆる場面が円滑に進み、安心と安定が確保されます。同じように聖霊は私たちの信仰に力を与え、それぞれの体をそのタラントにあわせてよき働きへと押し出していくのです。あるものは奏で、あるものは囀り、あるものは語り、整え、導き、寄り添い、そしてしたためる。わたしたちをわたしたちたらしめ、かつ導き支えるもの、それが聖霊です。
 みなが違うタラントを与えられ、異なるものが集って一つの礼拝を教会を形成します。なかなかみなで同じになることはできません。「朝ごはんにパンを食べた人」「朝風呂に入ってきた人」「パンよりご飯が好きな人」みな違います。人間の行いや考え方、経験する出来事はみな同じにはなりません。同じでなければならないのでしょうか?みなが同じ、一つの考え一つの行動を取ること自体不可能で、それを強要することは不具合、差別、偏見、排除につながりかねません。でも全部がばらばらでいい、ということでもありません。日本基督教団の中には「信仰告白」による一致を強く求める人たちもいます。しかし人間が作った文言を一緒に唱和することなど本来それほど意味があることとは言えません。「イエスは主である」という言葉は聖霊の助けなしには言い得ない、とパウロは言います。逆にいえば「イエスは主である」と言えたらその時、わたしたちは聖霊の助けを受けていることを確認できます。そして聖霊の助けによってただ言葉を発するだけに留まらない、同じ言葉を発することにのみ執心するのではなく、それぞれに与えられた異なるタラントを発揮していくことこそ、イエスに従うものの務めであり、罪赦された者のあるべき姿ではないでしょうか。
 みなが電球では明るすぎて困ります。寒い時暖をとることもできません。みながモーターでは食事もままなりません。教会という家で私たちはそれぞれが異なるがゆえにこそ豊かであり、つながることを大切にすることができます。そのような神と人、人と人の根本的なつながりを目指す共同体として、これからも歩みを合わせ、祈りを合わせて支え合って進んでいきましょう。

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