2018年5月20日 聖書:使徒言行録2章1節~8 「聖霊の降臨」川本良明牧師

 30代のころ、初めて在日大韓基督教教会の礼拝に出席させていただきました。説教が韓国語で始まり、全く分からないでずっと下を向いていました。すると突然、日本語が聞こえてきました。同じ説教を初めは韓国語、次は日本語で語るのです。そのとき、ちょうど「渇いた鹿が谷川の水を飲む」ように魂が生き返ったのを鮮やかに今でも覚えています。言葉の力のすごさを思うとともに、言葉から民族の違いを実感したのです。近年、どちらかといえば暗いニュースとして民族問題が伝わってきますが、聖書は民族をどのように語っているかを初めに取り上げたいと思います。聖書は民族を明るい面と暗い面の両方から語っていますが、聖書に民族のことが現れてくるのは旧約聖書の創世記10章と11章です。

 まず創世記10章ですが、ノアの3人の息子が出てきます。セムは黄色、ハムは黒色、ヤフェトは白色を意味し、息子の名前になっていますが、黄色人種・黒色人種・白色人種という言わば全人種を指しているのです。人種は民族へと発展したのですが、それぞれの地に、言葉、氏族、民族ごとに住み分けていたことが、ヤフェトの子孫は5節に、ハムの子孫は20節に、セムの子孫は31節に語られています。どの子孫も夫婦から家族、家族から氏族、氏族から民族へと発展していますが、どの民族も共通の言葉と歴史を背景に文化を形成し、愛と正義をもとに平和に生きています。ある民族だけが特別に優れているといった見方や民族間の対立・憎悪などをまったく書いていません。パウロが、<神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました>と語っていることは、この創世記10章と全く重なります。

 次の11章は、バベルの塔の物語になります。<世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた人々は、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。>同じ言葉を話し、技術革新によって幸福な生活をめざし、文化を発展させるのは、人間に備わった能力を神からいただいた賜物として発揮することであって何の問題もありません。今の私たちも同じであって、別に問題はありません。ところが後半になると、<さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。>と思ってから事態は急変するわけです。快適な住まいをもたらすはずのレンガやアスファルトが、富と権力を象徴する高い塔の建設に用いられるようになって、人の命よりもレンガの方が大切な社会に変わってしまいました。

 いろんな組織や設備や制度などが生まれ、実行されたことを豊かに想像することはできますが、すべて高い塔の建設という目的の枠内で認められるものでした。やがて煉瓦が落ちると大騒ぎになり、責任追及と処罰が行なわれますが、人間が落ちてもゴミのように処理され、煉瓦が人間の命より大切な社会になったのです。これは、今の私たちの社会でも起こっていることです。やれ福祉だ、施設だといって、善意から始めたことが、いつの間にか逆転して、収容所のようになるなど、情けない有様になっています。これを見た神は、人間の傲慢に一撃を与えて建設をやめさせました。その手段は、洪水ではなく、言葉の混乱という方法でした。しかし、このために人々は一緒に住めなくなって、ばらばらになって、こうして民族が発生したとバベルの塔の物語は語るのです。

 民族が一つの家族や種族から生まれた例はありません。程度の差こそあれ、皆混合していて「純血で単一」な民族などありません。しかも神が語りかけるのは、民族の中で生きている男女や夫婦、親子など、一人ひとりに対してであって、アダムやノアに語りかけたようには民族に語りかけていません。
 創世記11章では、民族の起こりを神の怒りと裁きとして語っていますが、これも人類に対する神の恵みかも知れません。なぜなら言葉が通じなくなったため、団結して神に背くことができなくなったからです。またある民族が自分の優秀性を主張して、八紘一宇とか言って世界制覇を目論んでも、他の民族は徹底的に抵抗します。あるいはある民族の落ち度が反面教師となって、他の民族がすばらしい民族に変わっていきます。これらのことは世界史を見れば明らかです。

 日本は侵略と植民地化という大変ひどいことをしましたが、アジアの人たちが徹底的に抵抗しました。そのため日本はぶざまな敗戦を迎えますが、この歴史の中で、朝鮮や東南アジアや中国が、いかにすばらしい民族性を成長させていったかを私たちは知っています。しかもそれで終らないで、戦後の日本はどんどん非人間化しています。「侵略した国の民族は、悔い改めなければかならずもっと悲惨な状況が起こってくる。」という恐ろしい言葉があります。このように神は、民族を通して世界を守っておられるのですが、私たちは、それを恵みと受けとめられず、罪に対する神の怒りと裁きとしか見えないのではないかと思います。

 そして聖書は12章になって、再び神が一人の人間に語りかけたことを伝えています。すなわちアブラハムです。そして全く神による新しい創造のわざとして、イサクが誕生し、その子孫としてイスラエルの民が生まれます。このイスラエルこそ聖書の中心テーマであって、神はこの民を世界のすべての民族の目標とされました。人間は神になろうとして、神から賜わった能力を富と権力獲得のために用いて台無しにし、民族同士の対立と憎悪を招いたのですが、この悲惨な現実から人類を解放するために神は、この民イスラエルを選んだのであります。

 このことがはっきりと示され、事実となったのが聖霊降臨の出来事です。4月1日のイースターからちょうど50日の今日が、まさにその聖霊降臨日です。イエスが天に昇られてから10日後、120人ほどの弟子たちが集まって五旬祭の祝いをしていたとき、おどろくようなことが起こりました。①激しい風が吹くような音が天から聞こえ、②炎のような舌が現れて、一人ひとりの上にとどまり、③一人ひとりが聖霊に満たされ、④霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのであります。<霊が語らせるままに>とは私にとって大変教えられます。このごろはつくづくいやになっています。何かを話すと後悔して、二度と話したくなくなり、沈黙→沈黙→沈黙…となってしまいます。そのとき気づいたのですが、「私が何かをやろうとするからいけないのだ。霊が語らせるままにが大事で、神様に一切を委ねていれば、話すべきことは与えられるはずだ。その時まで待つことが大事なのだ。」そういうことをここで教えられたのです。

 それはともかくとして、いったい聖霊は、弟子たちに何を語らせたのでしょうか。11節にこう書いています。<「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」>つまり聖霊に満たされた彼らは、神の偉大な業を弟子たちは語っているのです。それでは、その神の偉大なわざは、彼らが一生懸命勉強し、一生懸命聖書を読んで分かるようになったのか。そうではありません。
 それは復活のイエスから教えられ、悟らせていただいたからでした。復活して40日の間、イエスは弟子たちにたびたび現われていますが、ルカ福音書24章の復活物語の最後を見ますと、45節に<そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた>と書いています。そして①メシアが十字架に死なれた。②三日目に死者の中から復活した。③イエスの名によって悔い改めれば、罪が赦される。④主の証人となる。この4つのことを、旧約聖書をひもといて、イエスは弟子たちにくり返し教えのでした。

 この物音に集まって来た大勢の人々は、<だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。>と言って驚き怪しんだと書いてますが、むしろ強く感動したと思うのです。在日大韓小倉教会の朱牧師は、故郷の言葉を聞くとき、人は平安になると言われました。彼の教会での実体験から聞く聖書の言葉だと思います。故郷の言葉で福音が聞かれるようにと聖霊は弟子たちに働かれました。9節以下に書かれているパルティア、メディアなど15ほどの地名は、ユダヤを中心に弧を描いていて、ディアスポラ・ユダヤ人つまり故郷を追われて外国に住んでいるユダヤ人の居住地域になります。異民族の地域で生まれ育った彼らが、いま自分たちの故郷の言葉で神の偉大なわざを聞いたのです。そこには、神の救いの福音が全世界に伝えられるようにという、神の深い計画を見ることができると思うのです。

 聖霊に満たされた弟子たちは、神の偉大なわざをいろんな国の言葉で語りましたが、そのために三千人もの人々が洗礼を受け、教会が誕生し、イエス・キリストの福音が、ユダヤ全土から全世界に伝えられることが始まりました。またユダヤ人だけに限られていたキリストの福音の伝道が、異邦人にも伝えられる時代が来ることの予告を見るのです。聖霊降臨とは、まさにキリストによる救いの福音が、あらゆる人々に、あらゆる地域に伝えられることが始まった出来事です。
 しかもそのことを行なうのは、教会ではなく、イエス・キリストご自身です。教会の主、国家の主、世界の主であるイエス・キリストが、世の勝利者として、聖霊として私たちの内に宿り、私たちを用いて、私たちと共に働いて、このことをなされるということであります。弱さこそ強さである。私にはそんなことはできませんと言い、また毎日の生活を見ると情けない状態ですが、その中で、「主よ、助けてください、主よ、私はこんな人間です。」と言ったとき、神は聖霊として私に働いてくださって、今の働きをつづけさせてくださるのです。民族の間の壁を克服するために今も苦闘しておられるイエスに従って、そのご用のために働くならば、教会にこそそれぞれの民族の希望があると思うのです。

 私たちは日本にいて、なかなか気づきませんが、いったん朝鮮半島に足を運ぶならば、まさに38度線を境に今にも戦争が始まろうとしている緊張状態にあります。しかし、彼らが希望をどこに見いだしているのかということを考え、北朝鮮のクリスチャンたちや韓国のクリスチャンたちが、苦しみの中にあって、勝利者であるイエス・キリストに望みをいだいて、すがるようにして祈り、御言葉を聞き、そこにこそ民族の希望があるのだと思って、教会の使命を果たしていることを私たちは知らなければならないと思います。もしも朝鮮で戦争が起こった場合、私たちは、そこにもクリスチャンがいるのだ、兄弟姉妹がいるのだということを覚えて、決して戦争に加担してはならない、むしろ逆に平和のために働かなければならないし、それが教会の使命ではないかと思わされた次第です。

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