2018年6月10日 聖書:ヨハネによる福音書 第14章8節~17節 「満ち足りるとは」鈴木重宣牧師

 「わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」
 「あれがそうだ」などと言われて満足できるのだろうか?そもそも「満足」の裏には「欲求」がある。欲求が満たされても一時的でまたぞろ不足を感じるようになってしまうのではないだろうか。とはいえそう願う気持ちはよくわかる。「心の清い人たちは、幸いである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)という言葉通り、私は子どもの頃から神を見たいが見れないということは、心が清くないのだ、と悲しんだりしてました。果たしてみなさんは神を見たことがありますか?
 私は高校生の時は硬式野球部でした。ある強豪校との練習試合中、敵チームの監督が、こちらのサードの先輩の守備をみて、「あれをみろ!」と叫んで、「あれが守備だ!」と部員に教えていました。鋭い打球を胸に受けて止め、たじろぐことなくすぐに送球して打者をアウトにするそのプレーは甲子園常連の強豪校監督をしても賞賛に値しました。しかし誰に言われても、そうそう出来る事ではない。「あれがそうだ」と示されて、そうなれるものでもない。「こうしなさい」と言われて、すぐ出来るわけではない。だから練習し続け慣らし習慣化し、当たり前のこととしていかなければならない。
 言葉で聞くだけ、目で見るだけ、では、なかなか信じられない。
長く一緒にいた弟子たちですらそうだった。見て聞いて、信じるから行うし話す。信じるが故に行為し話していく。それの繰り返し。信仰の先達たちは神を信じ、人を愛し、罪を赦す。積極的に弱者に寄り添い、その権利回復につとめ、人間の作り出した「世の常識」ではない「神の御心」を人と人との関係において現そうとした。それが受け継がれ繰り返され、その結果が今の私たちになりました。
 言ってみせ、やって見せて、させてみせ、ほめてやらねば人は動かじ。ある軍人の言葉ではあるけれど、学ぶ所はあります。イエスが人々、ことさら弟子たちに教えた事は、言葉でそして行動で示され続けました。それでもなかなかイエスに従いきれなかった弟子たちが、ペンテコステを経て、自分たちも自ら行動し始めて、初めてイエスに従うことが現実となりました。現実にイエスを見て聞いて触れていない私たちは、イエスへの道のかなりの後方からスタートになります。なかなか追いつけない。でも諦めない。ゴールはそこにあり、しかも伴って下さる方がそばにいる。助け手もおくられている。信仰を持つ者は、イエスに従った生き方、イエスの生き方に倣う人生に招かれている。イエスのように直接神につながることの困難な私たちに対して、イエスが仲保者、仲介者として、そして聖霊が助け主として、用意されています。
 「示してください。そしたら満足」とは、ひたむきな信仰であると同時に、うすっぺらさや一時的な熱狂のような危険性をもはらんでいます。そうではなく「示してください、私達はそれを示し続けていきます」ということではないでしょうか。イエスのわざを知り、それを同じように行うことで、自らが主なる神を示す、主に栄光を帰せる。それこそキリスト者としての「満ち足りた」歩みであると、イエスは語っておられます。主に従いゆく満ち足りた人生を歩めるよう、イエスの名によって願いましょう。

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