2018年6月17日 聖書:ローマの信徒への手紙      5章1節~5節 「希望」 豊田護兄

「希望」とは何でしょう。ここで述べられている「希望」は、私たちが日常的に
使っている希望という言葉と少し違っている気がします。裏切られることのない
「希望」とここの聖書には書かれているからです。
 私たちが日常使うときの希望は、裏切られたりかなわなかったりすることが常に隣り合わせに在ります。「将来の希望は…」とか「私はどんな生活が希望です…」等どちらかと言うと期待とか望みとかに近いものですが、恋と一緒で上手くいかないことが隣り合わせにあります。
 今日は、3人の人物の希望について考えてみます。イエス・キリストと哲学者の三木清と、詩人のユン・ドンジェの3人です。いずれも、罪のないまま、権力に
よって殺されました。彼らは死ぬ直前まで「希望」を持っていました。罪もなく
殺されていくというのに。キリストは全ての弟子に裏切られ惨めにさらし者になり
殺されていく中でどんな「希望」を持ったのでしょうか。ただひたすら神を信じるという一点の行為のみかもしれません。三木清はその著作の中で、「統べてを失った時に希望は生まれ、それは愛に似ている」と述べています。何の罪のないまま
獄中で終戦後亡くなります。ユン・ドンジュも同じように、福岡の獄中で終戦を待たずに亡くなります。そして有名な「序詩」の中でこう語ります。

死ぬ日まで 天を仰ぎ一点の恥なきことを
葉あいによそぐ風にも私は心傷んだ。
星をうたう心で 全ての死んでゆくものを愛さなければ
そして 私に与えられた道を歩みゆかねば
今宵も星が風にふきさらされる

ここで述べられている「希望」とは何なのでしょうか。死を前にして何を信じようとしたのでしょう。権力者が最も恐れるのは、真実を新年を持って語る者達です。
暴力に訴えて騒ぐ者達ではありません。真の「希望」を人々に語る人なのです。
 決して裏切られない「希望」を私たちも心に持っていたいものです。

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