2018年7月1日 聖書:ローマの信徒への手紙9章19~24節エレミヤ書18章1~6節 「神の声に聴く」世良田静江牧師

エレミヤ書18章6節 イスラエルの家よ、この陶工がしたように私もお前たちに対してなしえないというのかと主は言われる
ローマ人への手紙9章24節 神は私たちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけではなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

私たちはフランクルの「夜と霧」はよく知っています。また、アンネ・フランクの書いたアンネの日記も読みますが、エリーヴィーゼルの「夜」はまた重い小説です。ヴィーゼルもあの地獄を経験した人でもあります。あの口にも言葉にもしたくないヒトラーのアウシュビッツをはじめとする収容所は地獄以上のものでした。
 その中で、神は何処におられるのだと呻くような言葉が聴こえるのです。遠藤周作の沈黙も真に神はどこにおられるのだと人間は叫ぶのです。今から2600年前、バビロン捕囚はユダヤ人の心にはこの問が湧いて来て止めることが出来なかったのです。バビロン捕囚はユダヤ人にとっては耐え難い絶望的な出来事でした。当時の王、ゼデキヤはエリコの方に逃れようとしましたが、追手に捕まえられ、王子たちはゼデキヤの目の前で殺され、王自身は両眼を潰され、青銅の足枷をはめられバビロンに連行されたのです。神の民として誇りをもっていたユダヤ人は滅びたのです。「何故、神はこのような事を」この問う中に人生とは納得し難いことに直面した人間の嘆きと悲しみが凝縮しています。新幹線内で女性を助けようとして生命を落とした梅田さんのことを聞いた時にこの不条理を誰が納得させる言葉が言えるでしょうか。
 神のみ心がわからない、静かになれない。あたかも心の底にマンホールから洪水が逆流するように噴き出してくるのです。エリーヴィーゼルは「神はどこにおられるか」という問いに対して不思議な声を聴くのです。「どこ?ここにおる。今吊るされ絞首台にいる」神の御子が十字架にかかられたという神の不条理。けれどもこれこそが恩寵であり、恵なのです。この神の恵の中にいる時、言い逆らい騒ぎ立つ思いは消え、今を生かされていることを感謝を持って神の言葉に聴けるのです。汝ら静まりてわれの神たるを知れ。

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