2018年7月8日 聖書:エフェソ信徒への手紙6章10~20節 「神の武具」豊田護兄

 昔17歳で洗礼を受けた時に、森分牧師から「どうして洗礼を受けようと思ったのですか」と尋ねられ、「エフェソのこの箇所によれば、神の武具を身につければ強く生きて行けるから」と答えたのを今でもはっきりと覚えています。それから50年、強くなるどころか、ひどい目にあい続けです。世間とは厳しいものです。闘う相手は、この世間なのですから。

 お陰で世に言う出世とは縁遠く、障がい者運動に始まり色々な場面で世間を敵に回し闘はざるをえませんでした。「大人になれ」とか「もっと自分の為に成るように」とか「そんな生き方をしたら利益に成らんぞ」とか世の先輩方に言われましたが、この神の武具が囁きます。娘曰く、「光の子らしく在りなさい」と囁くのです。世の中の価値や権威とは違う物を求めなさいと。そう闘う相手は、世の中の価値観や権威なのだということが嫌と言うほど分かりました。権威や知識はいい加減な物です。昔大学で教えられた障がい児教育は、今考えると全く観点は違うし間違えばかりでした。現場で40年過ごしてみて良く分かりました。世の中の価値観たるやもつとひどい物です。偏見と無知とお金を中心にしたひどいものです。そしてこれが世の中のメジャーで、神の武具を身につけてしまつた我々はマイナーというのが現実です。

 金持ちにも成れず、世に言う出世もせずここまで来ましたが。恥ずかしくない生き方だけは出来たように思います。大切なのは、世のひとたちの多くがいう「世の権威」でもなく、「世の価値観」でもなく、「世の知識」でもなく、自らの耳元でささやき続ける声を信じることではないでしょうか、たとえ世界を敵に回しても信じた道を歩まねばならないのでしょう。それが分かっているからこそ、あの時森分先生は優しく笑ってくれたのだと思います。  

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