2018年7月22日 聖書:コリント人への第Ⅰ手紙 1章18~25節 「神愚人賢」鈴木重宣牧師

 読み方がわからないと昨日増永さんから電話をもらいました。
「しんぐじんけん」と読みましょう。造語です。勝手に四字熟語、です。神は愚かで人が賢い、という意味では無く、
神の愚かさは人の賢さより遙かに勝っている、ということを意味しています。
 科学や芸術は、神の神秘を解明するための研究であり、神を表現するための技術であると言われます。神と同一視或いは神の芸術とされてきた様々な自然現象や災害なども、科学によって解明されてきました。「地震」「雷」「大洪水」「山火事」などなど。太平洋プレートが或いは空気中の電子が動く。森林伐採による土壌の保水力の低下。山火事は、長期にわたる旱魃によって乾燥し、加えて朝露のしずくがレンズ代わりになり、太陽光を集め発火します。土砂災害やゲリラ豪雨、西日本豪雨も。この数日続く高温も。科学的にいろいろ原因が究明され、予兆もあるにもかかわらず、変えることも防止することもままならない。備えようとしても備えきれず、防ぎ切れた試しはあまりない。イエス様が言う、「野の花を、空の鳥を見なさい」とは、あるいは、もっと自然の運行、動物たちの動向に目を向けて、危険を察知しなさい、ということなのかもしれません。
創世記の中で、アダムとエバは「善悪を知るの木の実」を食べて楽園を追放されました。「善悪を知る」すなわち、知識を手に入れ賢さをその身に帯びたとき、自らの愚かさ不甲斐なさ醜さも同時に知ることになった人間の営みが、ここから始まりました。神に与えられたものではなく神から盗んだものとして、知を悪いものと考える。知恵知識によって神に近づける存在となれる反面、それらによって愚かな行いや神にそむく存在になってしまう。そのようなジレンマを、創世記の失楽園の物語は伝えようとしているのかもしれません。世界の成り立ちを解明しようと進められてきた自然科学が、同時に人類を滅ぼす多くの兵器を開発する原動力ともなってきました。病を癒すための研究が、細菌兵器に転用される技術の根幹をなしていたりもします。神の英知が人間の悪の意志によって悪知恵に変えられ、人間の愚かさは神の知恵を台無しにしてしまうものなのでしょうか。
イエスさまはいかに弱いところに、虐げられたところに、差別に、痛みに寄り添っていかれたか。でも当時、おそらくほとんど分からない、理解されない感覚だったのではないでしょうか。イエスさまも「神の奥義」を私たちに知らせる、というような表現を用いることがありました。秘儀や秘蹟、神秘や奇跡など、神にまつわる事柄については、秘められていること、人の目には怪しく映ることが多々あります。新約の時代に生き、エコについて必死に説いたとて、どれほどの人に理解されるでしょうか。環境保全について環境破壊について、あるいは電磁波の人体への悪影響について。紫外線について。受動喫煙からの肺がん発症率の高さについて。きっと何を言っているのだこの人は?と敬遠され、あるいは拒絶され、しまいには排除されていくかもしれません。知識の差理解の差は時に残酷に人を分け隔て、異質なものとして拒否させてしまいます。
 人間に、世の人に、異質だ、奇異だ、滑稽だ、と言われる。それも結構なことです。理解されたいとも思いますが、同時に、わかりっこない、わかってもらえなくたっていい。そうも思えます。日曜日に、せっかくの休みに、わざわざ礼拝に行く。食事の前にお祈りする。収入の10分の1を献金として捧げる。時間も労力も経済的にも。何のためにそんな無駄をしているのか。そう思って貰って全然構わない。いやむしろそう思って貰った方がいい。人間の賢さに理解されなくとも、神さまには、きっと十分に受け居られられる。喜ばれる。そのことを私たちはよくしっているからです。
 神に赦された者として、神に喜ばれ愛されるものとして、神の視線を感じつつ、愚かに謙遜に、でも励まし高めあって歩みましょう。

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