2018年8月12日 聖書:マタイによる福音書3章7~12節 「つながれて生きる」鈴木重宣牧師

 世の中にはさまざまな組織、団体があります。NPO、NGO、ボランティア団体、市民運動等々。それぞれが目的を持って活動し、それぞれに大切な役割を担っています。多くのボランティアが被災地域に入り、炊き出し活動やゴミ処理の活動に従事していると聞きました。かつての阪神大震災を彷彿とさせるような映像もテレビで流されています。困窮状態があり必要な支援があり、それらを担うボランティアがいる。うまくかみ合っていけば頼もしいかぎりですが、双方が不具合を感じるときがあります。必要な支援が、事、量、場所、にうまくそぐわない。過剰なボランティアに逆にしんどさを感じてしまう。或いはボランティアを無償お手伝いさんと理解しこき使う。被災者がわがまま、ぜいたくになり依存的になり、主体を失った被災者は、自立する力を放棄してしまう。
 双方が丁寧に話し、何が求められているのか、何が必要で、何が出来るのか、よく理解し想像していかなければ、所詮、違った立場の異なる個人同士、かならず不具合不平不満が高まります。良くなることをめざす両者が、気がつけば、この上ないほどに不幸な結果を招くことになりかねない。かつて阪神大震災の時に感じたのは、人と人とをつなぐことの大切さ、です。ボランティアコーディネーターというような役割が不可欠であると言うことでした。情報を共有し、ノウハウを伝達し、一貫して継続したボランティア、被災者との連携を維持する。継続は力なり、と言いますが、連携も力です。良いボランティアコーディネーターのいた地域はいい雰囲気で、被災者もボランティアも、笑顔で生きていたように思います。良いボランティアコーディネーターの必須条件は、よく聞き、よく悩み、よく想像し、よく話し合い、実行する。ではないかと思います。
 今日の聖書の箇所であげられた、ファリサイ人とサドカイ人。いずれも当時のユダヤに置いて宗教指導者としての役割を担っていました。 ファリサイとは、分けられた者という意味です。聖別された、他とは違う、という意味です。一般の民衆とは異なり、律法を護ることに力を集中している、非常に敬虔なユダヤ教徒でした。しかし残念だったのは、それを人に押しつけた。民衆が律法をやぶらないよう、神から離れないよう、さらに厳しい律法をつくり、民衆の生活を厳しく規制した。神を信じるあまり、神からの律法を何より大切に思うあまり、その律法が何のためにあるのか、と言う疑問よりも、その律法を護るために何が出来るか。という使命感に満たされて生きた。すごいまじめな学級委員長のような存在でしょうか。
 サドカイとは、サドクという旧約に出てくる祭司の子孫を意味します。特権階級で、権力側、体制側の祭司職に就いている人々でした。世襲制という制度自体が悪いのか、それとももともと祭司職という職制自体に問題があるのか。特権意識が強くなり、民衆と神との間に大きくて深い溝をつくる事になってしまいます。神は恐れ敬う存在であることを主張し、特別な存在としてあがめることで、民衆から神を遠ざけてしまったり、礼拝を儀式化して特殊なものとしてしまったり、自分の存在自体も特殊なものとしていったり。「パパは社長なんだぞ」といばるクラスの威張り屋さんみたいな感じでしょうか。
 そんな学級委員長や威張り屋さんに対して、バプテスマのヨハネは厳しい口調で語ります。「まむしの子らよ」と。あなた達は、恐れられて一目置かれていると同時に、怖がられ嫌われている、まむしのような存在だと。管理でも、恐怖でもないやりかたで、民衆と神とはつながらなければならない、そうこの聖書の記者は言いたかったのではないでしょうか。
 伝統や形式美によって神を感じるのではなく、何をも超え、何をも理解し、何をも実現することが可能な、イエスキリストが私たちを神とつないで下さる。コーディネーターとして、イエスほどの方はありません。依存でも強制でもなく、管理でも恐怖でもない。勧めと促し、調和と信頼をもって、私たちを導いて下さる、イエスキリストに従って歩む。それこそが、キリスト者としての歩みです。すべては神の御心のまま、です。すべての時、場所に神は存在し、関わり、教えておられます。私たちが朝目が覚めて起きるときも、夜、布団に入って眠るときにも。道を歩いていて段差に躓く時、幼なじみに偶然出会う時にも。満員電車に乗る車いすの青年を見掛けたときにも、待っているバスがなかなか来なくていらいらしているときにも。病院で受け入れがたい病状告知を受るときにも。神との出会いは高度に儀式化した礼拝の中でのみ!ではありません。十字架や賛美歌、聖書、ろうそく、礼拝堂、これらが神と私たちをつなぐための電話やメイルの役割をしているわけではないのです。どんな場所やものを通しても、神さまはわたしたちに気づきを、愛を、聖霊を与え送って下さいます。空の鳥、野の花を見よと言われたイエス様です。私たちはその日々の生活の中、主から与えられた出来事、与えられた出会いや別れ、を通して、主から送られた他者との交わり、支え合い、つながりを強め、結果として共につながり、主に従い生きる道を歩みましょう。

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