2018年8月19日 聖書:ヨハネによる福音書13章21~30節 『神は誰の為に」豊田護兄

 ヨハネのこの箇所はとても厳しい箇所です。理解しているのは、「イエスの死」という現場にいるイエスとユダだけです。他の人たちには誰も理解できません。なぜなら彼らは「イエスの死」という現場にいないのですから。

 遠藤周作の「沈黙」という小説があります。遠く離れた日本という現場で起きている事柄を、現場から遠く離れたローマから見ている人たちとのギャップと、神は誰のためにあるのかを問いかけます。神は教会という強い力と権力を持った立場の側にある人たちのためにか、それとも貧しく弱い踏み絵を踏まねば生きていけない人たちのためにあるのか。自らのためではなく、自らの信仰のために死ななければならぬ人々のために主人公は何を選ぶのか。その時の神の声は現場に居合わせなければ聞こえないでしょう。

 学校をやめて分かったことは、学校が見失っている生徒やその保護者たちの日々の生活と現実です。学校なんかそれほど大切ではない厳しい生徒や保護者の現実をほとんどの教師は理解していません。イエスの弟子たちのように。学校は誰の為にあるのでしょうか。

 一方病院や大学や医療の現場はもっと厳しい状況です。医師たちのほとんどは、治療の一点のかたまり、その患者が生きて生活しそれを支える家族の事はほとんど理解していない現実があります。人が生きているという現場にはいないのです。

 統べてはその人の立ち位置に左右されます。同じことが「教会」にも当てはまるとしたら、とても考えさせられます。教会があって神があるのではありません。神があって私があるのです。現実に生きて生活している個人と神との関わりが一番大切ではないでしょうか。

 今大きな分かれ道にきています。10年後には、教団は財政破綻し、何もなせなくなります。教区も教団も牧師さえも頼りにならなくなった時、しっかりとした「神さま」と私の関わりが真と問われるのではないでしょうか。

聖書のお話