2018年9月9日 聖書:テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章1~8節 「信仰の継承」鈴木重宣牧師

 季節の変わり目で暑い日と寒い日が交互にやってきます。体調を崩したりしなように注意が必要です。テサロニケの信徒に向けてパウロによって書かれた最初の手紙です。パウロさんといえば、熱いか冷たいか、いづれかであって欲しい、でしょうか。当の本人は情熱の人パウロ、熱すぎるほどに熱く、暑苦しいほどに熱い人、太陽のように、まわりに熱と明るさとを与える存在です。猛暑や暖冬という異常気象がここ数年繰り返すようになって思いますが、当たり前の毎日、毎週、毎月、毎年であったなら、幸せ、あるいは平安といえるのかもしれません。衝撃も変化もなく、安心安全、よく知っている今、経験した今日を繰り返す。しかしそれでよいのか。マンネリ化しだらだら変わらない日々を過ごすならまだしも、「前は良かった」「今はなんでこんなにつまらないんだろう」といった不平不満まで出るようになったらなお始末が悪い。出エジプトを経験していたイスラエルの民は「エジプトの方がまだましだった、食べ物だって仕事だってあったのに」と民のために腐心し労苦しているモーセというリーダーに対して、不平不満をぶつけるようになりました。
 手紙のテサロニケの人々はこれと似た状況にありました。旅の途中パウロが立ち寄り滞在し、テサロニケの人の多くがキリストと出会い、改宗し救い主を信じるようになった。しかし共に過ごす時間はそれほど長くはなく、パウロは再び次の旅に出てしまう。すると、太陽から遠のく冬がやってきたかのように、パウロの伝えた教えではなく、自分たちにとって都合の良い解釈に流れてしまい、仕舞いには「結局パウロって自分のために、私たちを利用していたんだよね」なんてうそぶく始末です。そんな人々にパウロは「そうじゃないでしょ」と手紙を書き送ります。しかも文体は、そのようなテサロニケの人々を非難し改善を強く指導するようなものではなく、誤りに気づかせるような、遠回しとも取れるようなもの。「あなたがた自身が知っているとおり」裏返せば、こうだったでしょ、と。
 わたしたちも宮田教会の70年という長い歴史の中において小さな点のような者。パウロにとってのイエスとの出会いそのものはとても小さく一瞬の出来事、でもとてつもなく大きなことでした。ほんの小さなとげが刺されば、痛みでなんにもしたくなくなる。ばい菌が入って大変なことになる。また、細く小さな針が刺されば、病気が治ることもある。ほんの小さな出来事一つで私たちは行動が変えられる、変えざるを得なくなる。その変えられた動きによって、周囲の人は、「あの人には何かがおこった」ということに気づく。キリスト者としての福音を伝えられ、心の中にキリストを感じると言うこと。そしてそれをいつまでも自分の中にだけとどめていくのではなく、次の誰かへと受け継いでいくことが大事。そしてそれを受け継いだ後も、その出会いの奇跡を大切に手を合わせて守りつつ、その姿そのままで、周囲の人に、「キリストと出会った者」を証していくことこそ大事。出会いが終わり、変化が終了し「あぁおわった」と言って何もせずにいたら、せっかくの変化が台無し、信仰も台無しになってしまう。でも、そうはならないはず。パウロのように、伝道は一度きりのことではなく、繰り返し呼び返し、捉え直し見直していくこと。救われるのは一度きりの出来事ではなく、日々の暮らしの中で、何度も出会わされ、救われる。そしてそれは伝えられ、伝えていくことにもつながります。目から鱗がとれたのは、一度きりかも知れませんが、キリストに出会ったのは、日々、常々だったに違いありません。でなければ、何度もの伝道旅行に勧めたはずが無いのです。
 もう70年目を迎えました。私たちも、パウロに倣い、救われ続ける者として、伝えられた者として、伝え続ける者となるべく、与えられた福音をしっかりと抱きつつ、新たな伝道者が再び巡り会わされることを待ち望みつつ、時に熱く時に寒くキリストの証し人としての歩みを続けていきましょう。

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