2018年9月23日 聖書:申命記 6章20~25節 ルカ 2章41~52節 「少年イエスの物語」 川本良明牧師

 7月の終わりに北九州市で行なわれた来年から使われる中学1年から3年までの道徳の教科書選定の会議に行きました。3年生用でしたが、「日本の心のふる里-伊勢神宮」と紹介して、1つの方向に誘導するような教科書もありました。国会で森友学園の問題が起こり、土地や金や首相夫人などに関心が集まりましたが、本命は教育勅語による教育です。教育勅語は、内側は宗教性の薄い親孝行などの道徳を並べながら、外側を天照大神信仰など強烈な天皇崇拝で囲んでいます。教育勅語こそ人間性を根柢から奪う国家神道の教育の中心であって、国民の心と体全体を国家神道で支配していくものです。こうした動きが活発になっていることに気づかされていることを、主に感謝すると同時に主の体である教会に招かれている責任を感じているのは、私ひとりではないと思います。ですから主に助けを求め、時代のしるしを見分け、共にみ言葉に耳を傾けたいと強く願っています。

 先ほどお読みした聖書の個所は、イエスの少年時代のことを記していますが、教育の問題として大切なことが教えられていると思います。ユダヤには過越祭、五旬祭、仮庵祭という三大祭りがあり、ガリラヤのナザレ村で育ったイエスが、12才になって両親と都のエルサレムに行ったのは過越祭の時でした。過越祭は、かつてエジプトで奴隷とされていたユダヤ人が、神の力によって解放されたことを祝うもので、最古で最大の祭りです。だから、都はもちろん都に向かう沿道も大勢の人々で溢れていました。祭りが終わって帰路についた両親が途中でイエスがいないのに気がつき、捜しても見つからず、血眼になって神殿まで来て見ると、学者たちを相手に問答をしていました。その姿を見た母マリアは、「まぁ、みんな捜して心配していたんよ!」と思わず叫ぶと、「どうして? わたしが自分の父の家にいるのを知らなかったのですか。」と答えるイエスに驚いたと思います。それからイエスは一緒にナザレに帰り、両親に仕えて暮らしたというのです。

 12才になったときとは、少年時代の最後を意味します。ユダヤでは青年期はなくて、子どもからいきなり大人の仲間入りをします。そのとき会堂で成年式が行なわれ、人々の前でヘブライ語の聖書を朗読し、無事に終わると歌と踊りで大歓迎をします。そして会堂の一員となって奉仕をすることになります。国を持たないユダヤ人たちは、神殿と各地の会堂を結ぶ共同体によって生活していました。会堂は聖書の学びや礼拝や情報交換を行なうコミュニティセンターでした。会堂や家庭や地域社会でどんな教育がなされていたか、詳しくは分かりませんが、その一端を伝えているのが、先ほどお読みした申命記の個所です。これは、料理や燭台があり、子どもたちにはとても楽しい、祭りの中で語られる言葉です。
将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行ない、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。…」

 お気づきになったと思いますが、子どもが質問へと促され、その質問に大人が答えるという形を取っています。これは、家庭でも会堂でも行なわれた聖書を学ぶ教育の基本的な形でした。子どもが質問し、大人が答えるという関係ですが、ここには一つの特徴があります。子どもの質問に答える大人は、単に先祖の経験を昔話として語っているのではないということです。たしかに先祖が経験したことを語ってはいますが、<我々はエジプトでファラオの奴隷であった>と語っています。つまり、今の自分たちがファラオの奴隷であった、と言っているのです。
 それは、神の力によって過越を直接体験した先祖以来、次の代も次の代も、今日まで、同じ経験を繰り返してきたのであって、どの世代の人も神と直接交わってきた、その同じ神が、今も自分たちと交わってくださっているという信仰を告白しているのです。旧約聖書を読むと、アブラハムに神は呼びかけ、約束します。ところが次のイサクになるとまた神は呼びかけ、約束します。ヤコブも同じです。アブラハムに語られ約束されたことが、イサクやヤコブに受け継がれていくというのではなくて、アブラハムに語りかけた神はイサクに語りかけ、またヤコブに語りかけ、このように代々神は語りかけてきて、そのことを考えると、<我々はエジプトでファラオの奴隷であった>ということは、まさに今のユダヤ人の信仰を告白しているということなのです。

 その神が、モーセの十戒の第5戒を命じています。それは、かつてモーセの時に命じた神が、今、我々に命じておられるとユダヤ人は代々聞いてきた戒めで、それは、<あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。>(出エジプト20:12)というものです。<あなたの父母を敬え>という言葉は、子どもに対する掟と考えやすいですが、父母に向けた掟でもあります。<敬う>という言葉は<重んじる>という意味です。ですから父母が90であっても70の子どもは子どもです。自分の父母が、祖父母を重んじるのを見た孫である子どもが、自分の父母を重んじるとき、<主が与えるこの土地に長く生きることができる。>というのです。しかも、祖父母も父母も神と交わってきた。その神の戒めなのですから、子どもにとって父母は、神の約束の証人であり、伝達者です。その視線が神の方に向かっているからこそ子どもは父母を敬うのです。もちろん両親と子の自然の感情はあります。けれども自然の感情は、親としての性質を、真の親である神が恵みとして与えた賜物なのです。ですから親あるいは大人たちにとって、子どもは所有物でも家来でも召使いでも生徒でもなくて、まことの命へと導くために委ねられた神からの授かりものです。これが聖書が語る大人と子ども、親と子どもの関係です。

 イエスを見つけた母マリアが、<なぜこんな事をしてくれたのです。ご覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです>と言ったのは、親として当然の言葉でした。<あなたの父母を敬え>という戒めが母親の口から聞こえてくるようです。しかし、これに対するイエスの言葉は驚くべきものでした。<どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。>「自分の父の家」とはもちろん神殿のことです。両親が血眼になって捜して、神殿に来て、目にしたのは、<神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりして、聞いている人が皆、その賢い受け答えに驚いていた>というイエスの姿でした。これまでナザレの家庭や会堂で、他の子どもたちと一緒に、「この儀式はどういう意味ですか」と尋ねてきた。それが今、神殿で学者たちに尋ねたりしているのは、イエスにとってごく自然なことでした。だからイエスは両親に、「あなたたちは、神の約束の証人また伝達者として私を育ててくれました。私が自分の父の家にいるのは当たり前ではないですか」と答えたのでした。

 ですから、<それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった>のは、神殿では「父の家にいるのは…」と言って両親を軽んじたが、ナザレに戻ったらまた両親を重んじるようになった、というのはたいへんな誤解です。むしろイエスは、両親の権威を彼らよりももっと真剣に受けとめていました。両親が神の約束の証人また伝達者として自分を育てたこと、それが神から与えられた両親の権威であり、その権威をイエスは真剣に受けとめていたからこそこれまで通り両親に仕えたのです。しかし彼らはイエスの言葉を理解できませんでした。
 けれども母マリアは、<これらのことをすべて心に納めていた>と聖書は書いてますが、この言葉で思い出さないでしょうか。クリスマス物語です。ベツレヘムでイエスが誕生し、家畜のえさ箱に寝せていたとき、羊飼いたちがやって来て、<幼子について天使が告げたこと>をマリアに語ったのです。マリアは、<これらの出来事をすべて心に納めた>と書いています。しかしその天使が羊飼いに告げたお告げとは、<今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。>(ルカ 2:11)というものでした。つまり生まれたばかりのイエスが、救い主、主、メシアと言われていることに注意していただきたいと思います。

 新約聖書は、イエスが公の活動を始めるまでの約30年間、まったく沈黙していて、ただ一つ少年物語がルカ福音書に書かれているだけです。だからイエスが救い主になったのは、公の活動を始めるために洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、天から聖霊が降ってきた、その時だという誤解があります。そうではないのです。乳児のイエスが救い主、主、メシアと言われています。だから少年イエスは、それからすでに12年経っている救い主であり、主であり、メシアなのです。その彼が、この後、ナザレで両親に仕えて暮らしていくということです。そのことについて聖書は、<知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された>と結んでいます。

 全能の父なる神の子として、彼は両親に仕え、人々に仕えいきます。そして約20年経って、<悲しんでいる人たちは幸いです。その人たちは慰められるからです。…>と人々に語るお方としてご自分を現わすまで時まで、人の子として、人間が罪によって自ら招いている苦しみをご自分のものとされました。ヘブライ人への手紙5章7節ですが、<キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある父なる神に、祈りと願いとをささげられました>、つまり、肉において私たちとまったく同じ人間として生きられ、しかし、私たちとまったくちがって、完全に神に従順に生きられたイエス。肉にあって、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、私たちの救いのために、私たちに代わって、父なる神に祈りと願いをささげられた20年間、そのイエスが、やがて洗礼を受け、荒野の誘惑を受け、ガリラヤにおいて活動を始め、やがて十字架の死に向かって歩まれ、そして実際、十字架の死を遂げられて、私たちを罪と死の恐れから完全に解放してくださったお方です。このイエスを信じるならば、聖霊が私たちを、神である父と子の愛の交わりの中に招いてくださいます。しかも聖霊は、願いさえすれば、その信仰さえも私たちに起こしてくださいます。

 先ほどお読みした申命記6章20~25節を、私たちはどのように読むのでしょうか。私たちも、イスラエルの大人たちが子どもたちの質問に答えるのと同じように、単に昔話ではなくて、どの世代とも直接交わってきた同じ神が、今も自分に直接語りかけ、交わってくださっているという信仰の告白として読みたいと思います。<我々はファラオの奴隷であった>、つまり私たちは天皇の奴隷であったと告白します。<しかし我々は主の力強い御手によって導き出された>、つまり聖霊によって、私たちの死んだ魂を甦えらせていただき、キリストの体である教会に仕えていく者となりました。私たちは、天皇制の呪縛のもとにある日本の社会にあって、その呪縛から神の力強い御手によって解放された自由な人間として、共に歩んでいきますので、主よ、助けてください、と共に祈りながら歩んでいきたいと思います。

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