2018年9月30日 聖書:ルカによる福音書10章25~29節 「隣人とは誰でしょうか」 豊田護兄

 隣人とは誰でしょうか、近くにいる人総べてですか、親戚ですか、周りの全ての人でしょうか。人は総べて良い人とは限りません。身内でもひどい人、どうしようもない人は沢山います。その上悪意のある人は周りには沢山います。自分にとって良い人よりも悪い人の方が圧倒的に多いのにはおどろかされます。でも自分にとって悪い人でも、その人が良い人だと思う人もいるわけです。安陪首相やトランプ大統領も、私は良い人だとは思えませんが、彼らを良い人だと言う人もいるわけですから、自分を中心に良い人か悪い人かは決められません。
良きサマリア人の話しに出てくる司祭は、良い人かと問われるとどうでしよう。これに似た人達は沢山周りにいます。「隠された悪意」を持った隠れた「隣人」は沢山います。口には出さなくても部落差別や障がい者を差別する人は未だに沢山います。この人達も「隣人」なのでしょうか。同じクリスチャンだから、同じ仲間だから総べて良い「隣人」かと問われるとどうでしょう。あの司祭も別の所では良い人なのかもしれません。

 先日テレビで「アメリカは白人の国だ」と叫んでいる若者がいました。同じように「朝鮮人は出て行け」と叫ぶ日本の若者もいます。間違った情報や知識は差別や多くの偏見を生み「隣人」を遠ざけていきます。傷ついた人を避けて通った司祭のように。私たちは日常の生活の中で、隠された悪意をしっかりと見極めなければなりません。そして誰が本当の隣人なのか考えなければなりません。その時代に正義だと思ったことや価値があると思ったことも疑わなければなりません。その時代の正義がキリストを殺し、その時代の正義がかつての戦争を引き起こしました。当時の日本キリスト教団にとって「隣人」はだれだつたのでしょう。今の時代しっかりとした目で「隣人」を考えなければなりません。十字架の上で命を落とすとき、キリストは誰を「隣人」と考えていたのでしょうか。

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