2018年10月14日 聖書:ローマ信徒への手紙5章1~5節 「希望を生みだす信仰」世良田静江牧師

希望を生みだす信仰
ローマの信徒への手紙5章1~5節
 ホセアは旧約時代の預言者の一人です。妻ゴメルは三人の子どもを産んだ後、愛人の後について家を出ていってしまうのです。預言者ホセアは再三にわたり妻のことで悩まされますが、この事を通して神とイスラエルとの関係を知らされるのです。ホセアはこの事で深く傷つけられ、そして神がイスラエルの不真実によってどんな思いをされているのかを知るのです。ホセアが夫であることをやめることが出来なかったように神もまた、私たちの不真実不信仰を知っても見捨てることが出来ないのです。放蕩息子の父は息子なしでは父でありえないのに、息子の方は父なしでも遊びほうけるこの姿は何でしょうか。放蕩三昧で財産を使い果たした時に、食べる物を求めて戻って来た時、父はよろこびの余り、息子を抱きしめ、上等の上着を着せ祝宴まで催すのです。本日の箇所「なぜなら、わたしたちは賜っている聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」という言葉があります。初めてここに聖霊が言及されています。三位一体の神、父・子・聖霊の神です。聖霊とは具体的に考えれば、放蕩息子が父に抱かれるその回復と赦しと喜びの瞬間です。それは、この聖霊の経験、それによって神の愛が私たちの心に注がれるという経験を示しています。その聖霊によって神は三位一体の神となられたのです。神は裁きにおいて神であるのではなく、愛において神なられているのです。主イエスはこの世では悩みがあると言われました。しかし勇気を出しなさいと続けて言うのです。希望という言葉、困難と忍耐・練達と山を登るように続いて入ってきます。これらを避けるのではなく、むしろ忍耐を学び、練達してこの練達が希望を生み出すのです。希望は困った時のインスタントな神頼みではありません。親になって初めて親の気持ちが分かるように神のみ心を知り、神のパートナーとなっていくという希望の熟練なのです。人生の坂道を困難・忍耐・練達と歩みながら希望へ到達し、神の契約の成熟したパートナーとなっていく、直訳すれば「希望を誇る」という、それがキリスト者の誇り高い喜ばしい生き方となるのです。

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