2018年10月21日 聖書:ヨハネによる福音書 2章1~11節「始まるときは」鈴木重宣牧師

 いままでいくつかの結婚式に参列した。新婦の趣味でケーキは巨大なマロングラッセ。固すぎてナイフが入らず倒壊しかかった。高校時代の東京の友人の式では「アナタハ」と片言の偽神父が司式だった。ある友人牧師の結婚式では司式者が祝祷の時、三本指を立てて両手をかざして祝祷をしていた。いろんな趣向が凝らされる結婚式や披露宴。今日の聖書はそんな結婚披露宴の場面。そういえば聖書には酒や水がよく用いられる。イエスは水でバプテスマをヨハネから受けた。ペンテコステの時には弟子たちが、聖霊を受け「新しい酒に酔っている」と見なされた。「命の水を飲ませて下さい」と井戸端でイエスに頼んだサマリヤの女がいた。そして今日の箇所では、イエスは空になった酒樽に、ユダヤ人のきよめのしきたりの石の水瓶から水を注いだ。酒も水も意味が込められて用いられているに違いない。では今日の箇所はどう読めるのか。
 新しい美味しい酒が後からやって来た。世話役がそれに驚嘆した。メインディッシュの後、デザートの時に、さらなるメインディッシュを出されたようなもの。酒の切れ目が宴の切れ目、であるはずなのに・・・。バプテスマのヨハネによって、ユダヤ的な古いしきたりに風穴が開けられはした。しかしその後、では何に寄って満たされたら良いのか、というユダヤの民の空っぽの心は、イエスによってもたらされた新しい福音に満たされた。人々は驚嘆し、酒に酔っていると思われるような激しさで、感謝と喜びに満ちあふれた。それこそが奇跡の本質だったのではないだろうか。
 イエスが言う「わたしの時」とはいつだろうか?十字架に架かられた時。三日後の復活の時。馬小屋での誕生の時。多くの人の場合、人生の主人公としての活躍は、生まれた時と死ぬ時。集まりに自分の名前が入るのは、葬儀と結婚式くらい。イエスにとっての「わたしの時」とは命の水が人々の心に満たされ、聖霊によって押し出されていく喜びの時であり、新しい時の始まりの時を意味している。すなわちクリスチャンとしては、肉の体が死に、水によって再びいのちを与えられ、聖霊に満たされ歩みを始める時。キリスト者として生まれ直した日も、受洗記念日。イエスが言う「わたしの時」とは、まさにわたしたち自身にイエスの福音が満たされた時。新しく生まれ直し、キリスト者として歩み始めることを許された日、その時です。水が葡萄酒に変わったという奇跡は単に、世話役が驚嘆し、新郎が恥をかかず、母親が式の体裁を守ることが出来た、ということではありません。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」つまり、弟子たちがイエスを信じたとされる場所です。弟子たちの心がイエスのいのちの水で満たされた場面です。
 出来事を通して人の心に働きかけ、人を変えていく、わくわくと感動に酔わせて踊らせて走らせて、見守ってくれる、そんな「命のことば」に聖書に、わたしたちは触れて導かれ、キリスト者として歩んでいる。であれば、私たち自身も、自らの口の言葉を体の働きを、祈りを通して、キリストを語り伝え、証していくものでなければなりません。
 水瓶が満たされた時、人の面子が保たれたとき、水がワインに変わったとき、その時ももちろん大切です。しかし本当に大切なのは、弟子の心が信仰に満たされたこと。私たちも出会いによって、気づきによって、驚きと感謝によって変えられ押し出されていきましょう。そしてわたしたち自身もまだ出会わない多くの人の、驚きと喜びと感謝の導き手として、信仰者として歩んで行きましょう。

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