2018年11月25日 聖書:ヨハネによる福音書 5章36-47節「聖書とは何か」鈴木重宣牧師

 学生時代、友人宅ではピザを切るのにCDを使っていた。意外によく切れる。畑を歩くとたくさんのCDがぶら下がり、マンションのベランダでもくるくる回っている。鳥を撃退する効果があるらしい。さらにはCDやDVDは音楽や文字、映像さえ保存し取り出すことも出来るらしい。ただの円盤なのに、切ったり追い払ったり保存したり取り出したりできる。CDは「カット・出来る」DVDは「誰でも・便利に・どうぞ」の略かもしれない。子どもの頃教会にあった卓球台にネットが無かった。どうしてもやりたくて、ネットの代わりに教会にたくさんあった聖書を台の上に一列に並べて卓球をやった。また映画上映会をするときに、プロジェクターの角度調整に、新約聖書を挟んだりした。間違った使い方ではあるけれども、一応ちゃんと役に立つ。世の中にはそんなことがたくさんある。少々乱暴に言えば、聖書はCD、DVDのようなもの。ピザでは無く人の心を切ったり、鳩では無く人を排除・抑圧することにさえ用いられてしまう。要は、使い方を間違えないよう、単なる便利なツールとして多用することの無いように、注意が必要だということ。レーザーの光で情報を読み出すように、わたしたちは信仰の光で聖書を間違わずに読まなければならない。先日大分の仕事で、ある契約を結んだ。販売代理店契約だったが、10ページほどの契約書を読んでいくと、後段でノルマと違約金が定められていて、一年後に大損する可能性があることがわかった。慌てて契約内容の改訂を申し入れ、修正の上契約することとなった。いわゆる契約は人と人とが結ぶ物で、お互いが損をしないように取り交わす約束。でも結局の所、契約書を作った側が有利なようになっている場合も多い。つまり十分注意が必要なのが人同士の契約。一方で聖書は、神と人との契約であり、これは損得の勘定抜きに、むしろ神の側が大損することをも辞さず結ばれた神による契約。神が人を守り導くためにわざわざ人の側に降りてきて結ばれた、人間の救いを約束する契約に他ならない。疑いや迷い、妬みや争いの元として聖書を用いることなどあってはならない。
41節に突然「わたしは、人からの誉れは受けない」とある。文脈を無視するように急に、このような言葉が続いているのか。おそらくは聴衆の中にいたイエスに敵意を抱く者、イエスを理解しない者、非難する者の存在を知っておられたから。人々の救いでは無く自分の名誉や力を欲してイエスが行動している、そんな誤ったイエス理解が聴衆の心にあったとしたら、どんな良い話もどんな奇跡も意味をなさず、どんな書物を用いても誰も救いに入ることなどできはしない、ということ。正しく理解して事柄を見ないと、間違った使い方をしてしまう。イエス様が欲のために動いた、と考えれば、すべての救いの業も十字架も、クリスマスも何もかも、商業主義のお金儲け、自己満足の事柄でしかなくなってしまう。人間的な視点で理解できたなどと考えず、神に全幅の信頼を置き、聖書の言葉に信仰の炎をつねに滾らせられるよう願いつつ、歩みたい。

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