2018年12月2日 聖書:マタイによる福音書6章19節~24節 「良く生きるということ」豊田護兄

 今日の聖書に書かれている「富」とは何でしょう。今日一般的には多くのお金を得るとか、社会的な地位を得るとか成功することを富だと考えています。その代表がアメリカで、信じられない人が大統領になり、多くのキリスト教徒の右派と言われる人達が指示しています。これはアメリカのキリスト教の最大の間違えである「契約」に対する考え方とその歴史にあります。その流れの中で、富を得て成功するする人=神に愛された人というおかしな価値観が生まれた結果といえます。又そこには根強い人種差別があり白人至上主義があり、現在の多くの問題を生み出しています。

 富を得て成功するとは、決して「良く生きる」でもなく「神に愛される」等とはほど遠いものです。良く生きるとは、その現実を総べて受け入れ逃げずに生きる事だと思います。貧しいキリストの生き方こそがそのことを示しています。私の母は、貧しい盲目の両親の元に生まれ、まともに小学校すら通えずにすごしましたし、色々と障がいや社会的に問題のある兄弟や親戚を支えながら苦労を強いられ、差別の冷たい目にさらされて暮らしてきました。しかし決して逃げることなく生きてきました。何の富も成功も得ずに暮らしてきました。その中で貧しい人に頼まれるとお金を貸し、そのほとんどは帰ってきませんが、天国に貯金したといって笑っています。私はこんな母を立派だと思いますし、「神に愛された」人だと思います、そして「良く生きる」とはこのことだと思います。これが本当の富ではないでしょうか。何がこうさせているのでしょうか。

その生き方に意味があれば、それを継ぐ人が現れるでしょう。その人が大切にしていた物を大切に継ぐでしょう。そんな後ろ姿を示すことにこそ生きた意味と価値があるのでしょう。母が大切にしたもの、それは信仰だと言っています。それさえあれば貧乏でも心豊かに暮らして行けるといつも言っていますから。

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